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めいそう日記〜Day489:経験とことば

1. 瞑想小咄〜経験とことば

最近エッセイコンテストに応募をしてみるようになって、気がついたことがある。当然ながらどのコンテストにもテーマがあって、そのテーマに即した自分の考えを書き表さなければならない。コンテストによっては、その土地や物事に関する経験や思い出、抱いている想いなどと、その土地や物事に関わってこなければ、どんなに頑張っても文章を捻り出すことができない。

まぁ、頑張れば捻り出すことができなくもないかもしれない。しかし、その言葉は空想上の言葉であって、果たしてそれがエッセイと呼べるのかどうかと言われると、なんとも言い難い。言えることがあるとすれば、なんとか捻り出した空想上の言葉は、誰かの心に響く言葉になるのかどうか、という疑問があるということだ。

そういえば、と。そこまで考えてみて、自分自身の過去のことを思い出した。私の人生が大きく動き出したのは、ある一つの決断から。その決断は、新卒で入社した会社を辞めて、アイルランドのワーキングホリデーに行くということ。アイルランドに行くことは幼い頃からほのかに抱いていた夢だったので、その夢を叶えに行ったと言っても差し支えはない。

夢を叶えに、という原動力の他にもう一つ。自分を動かしたものは、自分の言葉に全くもって重みがないということに焦りを覚えたからだ。大学を卒業して社会人になって、仕事上で大人と接することが当たり前になってきて気がついたことが、自分の言葉が薄っぺらいということだった。

誰かに何かを伝えようとした時に、その言葉は自分の言葉ではなく、誰かからの借り物のような感覚があった。自分の経験や体験から得られる思いに紐づいたものではなくて、借り物の言葉。その言葉を話す自分は、なんだか薄っぺらい存在に思えてしまって、このままではいけないと思ったのがきっかけの一つだった。

アイルランドへと旅立って、その後も振れ幅の大きい経験や体験を積んで今に至る。今、自分が誰かに伝えられる言葉は、自信を持って自分の心から出た言葉だと言える。良し悪しは別として。

冒頭のエッセイコンテストに話を戻すと、どんなに頑張っても自分の経験や体験に裏打ちされていないテーマの内容は書くことができないが、少しでも経験や体験の記憶があるものは、その記憶を辿ることで糸口が見つかる時もある。

その記憶は、幼い頃に両親が体験させてくれたり、経験させてくれたりしたものだったこともある。そういった全ての経験や体験が、今の自分を形づくり、自分の言葉になっているのだと思うと、感謝の気持ちが湧いてくるというものだ。

経験に向き合うと言葉が生まれる。言葉に向き合うと記憶が蘇る。そんな互助関係をふと感じたのだった。

2. 今日の瞑想〜2023.2.18 Sat 5:45〜(9min)

今日は予定があるので早起き。もう少し寝ていたいところなので、寝たままで瞑想をすることにした。

今日はこの誘導瞑想。

身体が楽になる体勢で横になったまま始める。誘導の声に集中すると、通常の瞑想と比べて雑念が湧きにくくなってくる。

途中雑念が湧いても、声に意識を戻すと集中できるようになる。そのまま、深い繋がりを感じながら最後まで瞑想して終了。




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