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「あることに気づきなおす」それだけで世界は一気に裏返っていく

今少しずつ書き進めているキャリアの話はちょっと置いておいて、この週末にけっこう大きな気づきがあったので、その話を書きたいなと思います。

今年の春〜夏にデンマークとイギリスを中心にヨーロッパに行っていたのですが、わたしがそこで実際に経験した学びやワークを「体験」できるようなリトリートというか合宿をつくったのですね。たった2泊3日のプログラムだったのですが、色々なワークやともに過ごした時間の中に、みんなの優しさが混ざり合って、涙が溢れるとても尊いひとときになったのです。


ちなみに「場」をつくるときは、必ずわたしもその中に入るようにしているのですが、わたし自身も大きな気づきを得た、不思議な3日間でした。

自然と起きてくる「お絵かき」

「やりたいこと」と「求められること」、どう折り合いをつける?

実は、日本に帰ってきてから、ずっとこれからどうしようかなと考えていて。やりたいことはあるけれど、カラダが休息を求めていることもあって、「旅のシェア会」や「お絵かきイベント」などできることを一歩ずつやりながら、思いついたこと、人から言われたことなどをとにかく書き綴っていたのです。

ありがたいことに帰ってきて本当に一人でいる日がほとんどないくらい、誰かと話す日々が続いていて。その中でもらった言葉が大量かつ多方面すぎて、自分でも整理できていなくて、けれどやっと腑に落ちて前に進めそうな気がしているので、その経緯も含めてここに書き記すことにしました。


ちなみに、自分の中で湧いてきていた疑問の一つはこれ。

フォルケホイスコーレに学びに行って、帰ってきてから日本の社会にそのまま順応できている人っているのだろうか?

いわゆる”フォルケ帰り”の人たちと会ったり、”フォルケに行きたい”という人の相談を受けたりするなかで、けっこうここの不一致が起きていそうな感じがしたから。

せっかく今、サバティカル休暇とかキャリアブレイクという言葉が生まれてきているのだから、社会としてもそういう方向性ってありなのでは? という感覚もあり、「今のキャリアを見つめ直したり、セカンドキャリアを考える場所としてフォルケが機能しないのだろうか」と考えたりしていたのですね。

フォルケ発祥のデンマークにも行ったけれど、やっぱり深い対話をするには母語が大切ということを思い知ったし、わざわざデンマークまで行かなくても、日本人が「よく生きるを考える場所」が日本にもっとあってもいいのではないかと思うようになったのです。(ちなみに、「幸福な国ランキング第2位」であるデンマークの雰囲気に実際に触れるのはもちろん価値があるし、現地で出会える人たちとの対話の中から見えてくる”リアル”にもすごく価値があるので、それはそれで意味があることだとわたしは思っています。)

それから、デンマークのフォルケもそうだけれど、日本のフォルケが集客や経営が厳しいというところも課題に感じていた中で、社会的な文脈ともう少し接点が持てないだろうかと思うようになっていました。たとえ1週間とか1ヶ月仕事を休んだとしても、結果的に自分の人生に納得して、よく生きられる人が増えたほうが、企業としても国としても生産性は伸びるはずだし、絶対的に意味があるはずだと思ったから。


もう一つは、自分の才能の生かし方について。

シューマッハで教わった「自分の才能を仕事にする」ために、わたしができることって何だろう?

ここ数年出会う人たちによく言われていたわたしの印象は、「自分らしさを発揮しながら、社会で楽しく働いている人」ということと「話を聞いているだけで楽しい気分になって、自分も何かしたくなってくる」ということ。

いわゆる、企画とかマーケティングといった経験職種や、編集やプロジェクトマネジメントといった必要スキルではなく、「わたしが人として、相手に自然と与えられるものは何か」という問いなのですが、これは肩書きがないままに出会った人たちと、ここ数年の経験が教えてくれたことでした。

たしかに、会社員として仕事をしていたときも、「一緒働かせてもらって、仕事するのが楽しいってはじめて思いました…!」と言われることがよくあって。心の中では「え、楽しくなかったら仕事やる意味ないやん…結果も出ないし…」と不思議に思っていたけれど、わたしが楽しいと思ってその仕事をやっているだけで、勝手に周りが感化されていくことがよく起きていたことを思い出したのです。


ちなみに、わたしが3ヶ月滞在していたNordfyns Hojskoleでは”Future Workshop”という実際にチームでプロジェクトを立ち上げるという授業があったと聞いていて。わたしが参加したタームは期間が短く、その授業はなかったのですが、卒業生の人がその話をしてくれたのですね。自分が大切にしたいことを軸にしながら、誰かと役割を分け合い、社会をつくっていく経験をする、というデンマークの思考方法を実践してみる授業だと思います。

それがふと思い出されて、わたしはこれまでサービス設計からプロモーション、提供まで一貫してほぼ経験してきているし、周りにも大手企業社員から起業家、フリーランスまで色々な立場の人がいるので、必要なときにヘルプすれば、そのプログラムって意外と日本でも設計できるのではないか? と思ったのです。

わたしは新しい価値を生み出すとか伝えるといった仕事の楽しさを経験として知っているし、社会の中で自己実現していくことは可能だと思っているんですよね。だからこそ、一緒にそういう経験をしてもらうことで、社会を楽しむためのきっかけにしてもらえたらと思うようになったのです。

「これを実現するためには〇〇が必要」の呪い

そういう流れもあって、ごく自然と考えるようになっていたのは、それらを実現するためには何をしたらいいんだっけ?という問いでした。

今のわたしに何が必要なんだっけ?
何があればこれが実現できるんだろう?

そんな問いから湧いてきたのが、キャリアコンサルタントとコーチング。周りにその資格を持っている人が多かったというのもあるし、自分があまりに独自のやり方で乗り越えてしまってきたために、今の日本社会の状況をもうちょっと知っておきたいかなとか、自分の道を見つけていく方法として、一般的なノウハウを知っておきたいと思ってしまったのですね。

これが落とし穴でした…

時間はあるし、やればいいだけなのに、迷うのです。
説明会も申し込んで、話を聞いて、いいなとは思うのに、何度も迷うのです。

しかも、自分の心に聞いてみたら、「勇気がいるのは、やらないほう」という答え。わたしは何を恐れているのだ…というままに、湯河原(プログラムの開催地)に到着してしまったのです。

迷ったときは、周りに聞いてみる。一旦そのまま置いてみる。

ちなみに、どちらの有資格者に聞いても、「え?今?本当にいる?」という反応で。わたしには必要ないという意見が大多数でした。笑

理由の一つは、もうすでにわたしが今の在り方で、自然と相手にとっての「きっかけ」を手渡せているということ。

もう一つは、わたしの経験そのものがユニークで価値があって、相手はその話を「聞く」ことで感化されているということ。

たしかに、よくカウンセリングやコーチングで重要視される「傾聴」姿勢はインタビューが得意な時点で、スキルとして持っていたんですよね。

ちなみにわたしはいつも、話を聞く場に魔法をかけるようにしていて。

「この時間で、話し手が持っている、その素敵さに出会えますように」

「誰もが自分の中に自分だけの可能性を持っている」

そのことをわたしは心から信じています。

だからこそ、たった1時間であっても、わたしがその人のそのキラキラ輝く部分に出会えますように、と願いを込めて話を聞くようにしているのです。

コーチングの説明会を聞いていても、もうすでにそれはわたしが持っているものだったことに気づいたり。傾聴はスキルではない、相手の話を心から聞きたいと願い、その向こう側にある可能性を心から信じられるかどうか、そういうことなのでは? と思ったのでした。

それに加えて、わたしは「聞く」ほうではなく、「伝える」ほうだったということ。「自然と会話の中で浮き上がってきたことを、そのままわたしの体験と一緒に伝えていく」それだけで価値があることだったということを、わたしは周りの人たちに教えてもらった気がしました。

誰もが内側に光を持っている

「あると思えばある」 わたしの夢はもう、すでに叶っている?

最終日の朝、半分寝たまま温泉に入りにいったら、ふと湧いてきたこと。

あれ、わたしの夢ってもう、ほとんど叶っているのでは?

いつもいつも、「何か足りない」から「何かを求めて」いたけれど、振り返って目の前を見つめていたら、すでに叶っているものが多くあったことに気づいたのです。

「見えぬけれどもあるんだよ」

露天風呂からよく晴れた空を見ていたら、そんな声が聞こえてきて。
なんの詩だったっけ?と思って調べたら、金子みすゞさんの詩でした。

「星とたんぽぽ」

青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

金子みすゞ

わたしが今やりたいと思っているのは、「その人が自分の人生に気づき直す瞬間に出会いたい」ということと、「それぞれの輝くような才能を世の中に出していくお手伝い(プロデュース)」なのですが、少しずつ実際に「場」はできはじめていて。

日本に帰ってきてから月2・3回くらいで新しい企画をやっているのですが、毎回リピーターができて、クチコミで広げてくれて、応援してくれて。

わたしの伝えたい価値を、言葉にして伝えていないにもかかわらず、経験を通して感じてくれていて。そういう場所の必要性を理解し、共感して、周りに伝えてくれていて。

一緒に主催した人も、場づくりの楽しさに感化されて、むしろわたし以上に次への期待やわくわくを持ってくれていて。

そんな幸せなことってあるんだろうか、と気づいたのです。

「見えぬけれどもあるんだよ」

ちなみに「すごい準備大変だったでしょ」とよく言われるのですが、実はそんなに準備作業自体は大変ではなくて、昔からプロジェクトを一人で回してきているので、息を吸うようにできるんですよね。企画について話しているうちに、自然と設計図ができていく感じなのです。

むしろ人との調整のほうがずっと大変!笑
一つの場づくりにおいても、イメージしていること、大切にしたいこと、譲れないこと、ほとんどが同じように見えて意外と違っているところからのスタートなのです。けれど、その対話こそが場づくりのベースだと思っているので、そういうことに一番時間をかけるようにしています。

わたしの純粋さが、誰かの鏡になっていく

最近気づいたのは、何回か話す機会がある人なら、その人の引っかかりポイントがなんとなく見えてくるということ。デンマークで「自尊」と「自信」、”Being”と”Doing”の違いについて学んだ結果、自分の中でその二つの整理がついてきたことと、自分の純度が上がったことで、目の前の人たちのこともクリアに見えるようになってきたのです。

だとしたら、わたしが「何かしよう」とするのではなくて、純粋な気持ちで「その場にいる」だけでいいのでは?

わたしが素直な気持ちで話を聞いて、そのまま言葉を返す。
相手のなかで気づきが起きて、自然と次に向かいはじめる。
わたしが楽しいと感じる場づくりをして、そのなかでわたしもわたしに気づき直すことで、周りにいる人たちにも気づきが起きる。

そういう「ただわたしである」ことでできることがたくさんあるんじゃないかと思えてきたのです。

わたしはもう足りない何かを求めるのではなくて、今の自分でそのまま生きることで、誰かの役に立てる。そういうことを自覚させられたような気がしました。

友人が描いてくれた「わたし」の絵

ちなみに、わたしの名前の漢字は「清らかな水の流れるところ」という意味なのですが、わたしの存在自体がそういうクリアさとかピュアさとか、ナチュラルさを持っているんだね、とこの絵を描いてくれた友人が言ってくれたのです。

わたしはずっと海のそばに住みたいと思っていたけれど、わたしがわたしとして清らかに流れていれば、自分が誰かを癒やす水になれるのかも、と思ったのでした。


実は、デンマークの最終日にも、友だちから言われた言葉があって。

「不安になったり、自信がなくなったり、人が型にはまったりするのを見ても、本来のピュアな部分と強い部分に戻っていく力を自覚してね。
どこかに行かなくても、あなたがそういう存在であれば良いんだから」

急にいろんなことがつながって、このリトリートの「つながり(わたしたちは生きているだけでそもそもいろんなこととつながっている)」というテーマも重なって、わたしのなかにすでにたくさんの可能性があったことに気づき直したのでした。


わたしが一番恐れていたのは、「ない」ままではじめること。

けれどそれは、本当は「ある」ことに気づき直すための、「ある」ことに気づいてそのままのわたしで歩きはじめるための、単なる後押しでしかなかったのです。

コーチングもキャリアコンサルタントも、同じ道の上にはあったけれど、純度100パーセントではなくて、「このままの自分ではやれない」という、どこか不安の上に成り立っている望みだったのかもしれない、と今は思っています。


日本社会では、いつも何かをするために何かを手に入れないという思考がはびこっている。けれど、それはただのわたしの思い込みでしかなかったのです。

そう思えたことで、すべてが裏返っていったというか。わたしの夢はすでに叶っているし、あとはそれをちゃんと前に進めていくだけだと、気づいたのです。

大きい窓から見えるのは、真っ青な空。

起きてくることをただ、そのままに受け入れて、純度の高い自分で「ある」こと。それだけで、未来がパタパタと変わっていくことに気づいた、そんな気づきの記録でした。


来年には瀬戸内でこういうリトリートの場ができたらいいなぁ。

大好きな海を見て、みんなで深呼吸したい

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