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第19週「鐘よ響け」#長崎の鐘

1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。
その時、長崎医科大学の診察室にいた物理療法(放射線)専門医師・永井隆博士も被爆。大学は爆心地から700メートルの距離にあり、多くの職員が犠牲となりました。

永井隆博士自身も妻を失い、右側頭動脈切断の重傷も負いながら、被爆者の救護活動にあたります。放射線研究による被曝で、既に1945年6月には白血病で余命3年の宣告を受けていました。
一旦昏睡状態に陥るも奇跡的に回復し、大学教授として原子病の研究も始めますが、病のため間もなく療養生活に入ります。

その生活の中において、長崎原爆を経験した立場で『長崎の鐘』『この子を残して』など多くの著書を残しましたが、一番最初に書き上げられたのが『長崎の鐘』と言われています。

原子爆弾が投下された場所は浦上天主堂のほど近く、鐘は右側の塔に小さい鐘、左の塔に大きい鐘がありましたが、原爆により塔が倒壊し、鐘も吹き飛ばされました。瓦礫の中から永井博士が二つの鐘を見つけたとき、大きい鐘は無事でした。


ドラマ『エール』のシーンでもありましたが、原爆で打ちひしがれた人たちを奮い立たせようと、この鐘を鳴らすことを決意し、丸太を組み、チェーンで吊り下げ、終戦から4ヶ月後、クリスマスの日に初めて鐘が長崎の空に響きました。
現在もこの鐘は1日に三度、鐘の音を響かせています。

 『長崎の鐘』は1946年8月に執筆されましたが、GHQの厳しい検閲を経て出版されたのは2年も後の1949年1月のこと。それも日本軍が虐殺した『マニラの悲劇』と合本にすることが条件でした。ベストセラーになり、永井博士と親交があった式場隆三郎氏の強い要請で1949年7月にレコード化されました。
藤山一郎の歌唱、サトウハチローの作詞で古関裕而が作曲という形。
サトウハチローによる歌詞の詩想から、途中で長調に転調し力強いメロディーになっている。

 平和を祈る鎮魂歌として歌われた楽曲も大ヒットします。作詞したサトウハチローは、戦後初の流行歌ヒットになった「リンゴの唄」もこの3年前に手掛けています。藤山一郎にとっては、同じ年に発表された「青い山脈」と並ぶ戦後の代表曲となりました。
当日のレコーディングは40度近い高熱、当初は再録音するという約束で、無理を押しての歌唱でしたが、いつもの透明感がある声量豊かな格調高い歌声よりも、より悲壮感を描き出した歌唱にスタジオにいる関係者一同が魅了され、そのまま発売されました。

これを聴いた永井博士はいたく感動し、「新しき朝の」という題の短歌を3人に贈ります。
古関裕而はこの短歌にメロディーを付け、藤山一郎も旋律を作曲し「新しき朝の」という曲もまた「長崎の鐘」と共に、戦争で荒野となったところから生きようとする全国の人々に平和への想いと希望、勇気を与えました。

 1951年1月3日に放送された第1回NHK紅白歌合戦では、藤山一郎が大トリで「長崎の鐘」を歌唱しています。その後1964年、1973年、1979年でも歌われています。

1973年の紅白では、作曲した古関裕而がステージでNHKホールに作られたパイプオルガンの演奏を担当。曲紹介では、作詞したサトウハチローがこの年亡くなったこともアナウンスされました。原作者の永井隆博士もまた、1952年に亡くなっています。1973年は日本の復興も進み、紅白歌合戦そのものもこの年落成されたNHKホールでの開催に移り変わります。
長崎原爆に限らず、全ての戦争被災者への鎮魂歌として作られた楽曲ですが、1973年のこのステージに関して言うと、日本はここまで復興しましたよというメッセージもそこに込められていたのかもしれません。
(文:ミュージックソムリエ:柏井要一)

NHK連続テレビ小説「エール」                  (NHK総合月〜金 朝8:00〜8:15、12:45〜13:00)
土曜日は1週間を振り返ります。その他NHK BSプレミアム、NHK BS4Kでもオンエア中です。    
*放送予定 3月30日〜9月26日
またNHKオンデマンドでも見逃し放送をご覧になることができます。


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