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水商売の道

何歳のときか忘れたけど、家族で早起きして初日の出を見に、山に登った記憶がある。どこの山か忘れた。数年続いたはずだが、いつ止め、なぜ止めたのかも知らない。

父も母も厳しかった。特に母は、自分が小学校の教師だったこともあり、低学年の頃から算数のドリルをしつこくやらせた。毎日、日記を書き、交換した。

お陰でまあまあ学校の成績はよく、中学はエスカレーターで、高校は、一番の親友が山口高校の理数科に行くというので、じゃ、僕もと合わせた。

山口大学に勤めていた父は直接は厳しくなかったが、物事の判断は徹底していて、その最たるものが、テレビはいらない、だった。だから、ときどきクラスで話題になるドラマや歌番組、CMなどは全くわからなかったが、嫌われたくないと、適当に知ってるふりをした。

大学受験に失敗して、予備校に行く話になった。やはり一番の親友が、御茶ノ水の駿台予備学校がいいと言うので、一緒に行った。彼は医学部志望で理系コース、僕は文転していたので文系コース、別々になった。

高校でパチンコに少しハマった。バスケットボール部の先輩と一緒に、山口市内の商店街の中のパチンコ屋に行ったり、現役引退してからは、小郡のパチンコ屋にひとりで行ったりしていた。

予備校に通っているときも、住んでいた池袋のパチンコ屋に行った。熱くなって仕送りのお金を使い込んでしまった。

父の出身は麻布で、祖父母と叔母が東麻布の実家にいた。予備校に行くようになって、よく遊びに、たまにお小遣いを貰った。祖父は長男、父も長男、僕も長男、祖母も長女なので、可愛いかったのだろう、甘かった。それにつけ込んだりした。

それでも、あまり無心が過ぎると、父や母にバレると思い、バイトしようと思った。アルバイトニュースを買ってパラパラ見ていたら、六本木という文字に目が留まった。祖父母の家から歩いて10分もかからない、これ、いいかも?

面接に行ったら、即、採用だった。玉椿というディスコで、新宿にあったツバキハウスの姉妹店だった。

それからずっと水商売。浮き沈み、沈みの方が大半だけど、まあ、悪くはない。パチンコだって何だって、勝つことなんて稀なのだ。そうして、勝ったときの味が忘れられず、負けても懲りもせずにやってしまう。

父も母も88歳、昨年米寿になった。生きているうちに、なぜ水商売の道に入ったか記しておくことにした。もっとも、高校時代後半はタバコも吸って悪ぶっていたから、薄々そうなると勘づいていただろうけど・・・

2023年元旦。
両親と見た初日の出を思い出に。


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