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父倒れる

8月の終わりなのに暑い日のこと、夕方スマホが鳴った。見たら父の名前で、その時点で既に覚悟をした。出たらやはり父でなく男性の声、「赤羽消防隊の者ですが、関一雄さんのご家族の方ですか?」「はい、息子です」「お父様が倒れました」

父との連絡は常にメールで、電話を使うことは殆どなかった。一緒に出かける時マンションの下まで車で迎えに行き、「着いたから降りてきてください」と、こちらから父に電話をする程度である。それも年数回。

倒れたのは、そのマンションの自分の部屋の前、動けなくなっていたのを隣の住人が偶然見つけ、熱中症かと冷やしたりしながら管理人に連絡、救急車を呼んだのだ。救急隊の説明では、既に左半身の反応が悪く「脳梗塞が脳出血の可能性があります」「大学附属病院に受け入れてもらえるようになりましたが、来られますか?」

父のマンションを選んだのは僕だった。

2013年度を以て、長く続けた大学教員生活にピリオドを打つことを決めた父は、実家から離れた下関で一人暮らし、その後を迷っていた。母は、父が下関で一人暮らしを16年している間に、自分のライフワークである染織に精を出し、妹もそれを手伝い絵本を出版するなどしていた。裏庭で畑を耕し鶏を育て、「半自給自足の生活」と周りは言った。

そこに父の居場所はあるのか考えた。母や妹に負担になるのではとも思った。父に「東京で暮らしたら?」と勧めたら、元々は麻布で生まれ育った都会っ子は、「そうするか」じゃ、どこに住むか、僕の店や自宅のある近所がいいのでは、物件探すか、となったのである。

幸い手頃な物件があり、2013年の終わりに契約、内装工事を翌年に、2014年4月から住むことになった。将来を考えて廊下を広げてトイレやバスルームのドアを病院にあるようなバリアフリーのタイプに、手すりも付けた。

母には事後報告だった。そうして怒った。

それはそうだろう。何の相談もなしにマンションを買ったのだ。財布の紐は父が握っているが、お互いの財産なのである。「勝手にそんなこと!」

僕はすっかり悪者になった。「周がまた何か企んで」と母が言うのも、それはそれで仕方ない。自分のやりたい放題に生きてきた過去は消せない。親には散々迷惑かけてきたのだ。

結局、生前贈与という形で決着した。母は離婚も考えたようだが、さすがにそこまではと思ったようだ。山口市の実家の名義を父から母にした。表向きには何も変わらないけれど、母はそれで気が済んだようだった。

東京で暮らす父に、店で古典講座をやってみないかと持ちかけた。昼間の営業のお客様の大半は高齢の女性で、古典に興味のある方も多数いた。年を取って初めて古典の面白さ、奥深さに気付く方が多い。僕もその一人。

2014年の夏、枕草子から古典講座はスタートした。その後、竹取物語、源氏物語と、長編の源氏物語の終盤、光源氏最愛の妻「紫の上」が逝く「御法(ミノリ)巻」の途中で父は倒れた。

始めた時、どんなものかと体験気分で集まった大入り満員の30名は、少しずつ少しずつ参加を見合わせていき、ここ数年はその十分の一、3名になっていた。

父のマンションを選ぶ時、スーパー、病院のことを考えた。すぐ近くにそれらがあること、その条件を見事に満たしていたのは、今となればズバリ当たったと言っても良いだろう。数日置きに行くスーパーは歩いて1分、病院は内科、泌尿器科、眼科とかかっていたが、それらも10分もあれば行ける距離、何かの時の高度救急救命センターのある大学附属病院もその距離なのだ。

救急隊員からの知らせは自宅で受けた。自宅からも歩いて5分、自転車なら2分、自転車で急いで向かった。病院は17時を過ぎて時間外だが、どうすればいいのかは過去に義母で経験していたし、手続き等々も、お節介な義理息子がやっていたので、その辺の心配は全くなかった。

受付で書類を記入していると「関一雄さんのご家族はいらっしゃいますか」と早速声がかかった。ドクター2人、症状の説明、「今、CTを撮って詳しく調べています」「またお呼びします」看護師もその後来て「高血圧のお薬とか、血液サラサラにするお薬飲んでますか」と。「いえ、ありません」

1時間くらい経って通された個室のパソコンモニターには、白い影があった。「右視床に出血があります」「これが脳室の方に行くと」「閉塞性水頭症の危険が」

淡々としたドクターの説明に、健康診断でどこも悪くない父がまさかと思ったが、まあそれも88歳なら仕方がないのだろう。それに、普段から冷房嫌いで脱水症状に鈍感なのだ。このところの東京の夏の異常な暑さは、都会育ちの父ではあるが遥か昔のこと、予想を超えて父の身体を襲ったのだろうと、自分に言い聞かせた。

すぐに入院準備となった。至急必要なオムツ、尿取りパッドを院内コンビニで買い、書類に父の情報、キーマン(自分)の連絡先等記入、看護師に渡しつつ「父と話すことは出来ますか?」と聞いたら、「ICUから病棟に移るときに、ご一緒できるかも知れません」「ドクターに確認しますね」

オッケーが出て、担架に乗せられた父と短く話せた。前立腺肥大で行きつけの病院に行った帰り、尿意で急いだとか。「そんなの、漏らしちゃえば良かったのに」「それが、漏らしたんだよ」頭はしっかりしている。

病棟に落ち着き、所持品等持ってきた看護師から渡された中に、「これは汚れていたものです」

仕事の妻には病院で待っている間にメール、父の入院を見届けて家に帰って、洗濯をお願いした。「これから大変ね」「うん」

母には電話した。驚いていたが、母の兄弟からも同じような連絡が続いていて、もうそんな年齢なのだと落ち着いているようだった。そうして自分が最後まで残るだろうとも言った。

入院から1週間経った。
父の容態は良好、命の心配はなくなったが、「左半身脱力」は残った。ソーシャルワーカーと面談し、近くのリハビリ病院への転院を決めた。コロナ禍でなかなか大変らしいが、なんとかなりそうなのは、父のこれまでの徳だろう。それ以上に、部屋の前で倒れ、隣に助けられ、管理人、僕と連絡があったのは奇跡かも知れない。「もしも家の中で倒れ誰も気づかなかったら・・・」

母に経過報告をした。母なりに父のことは1週間考えたようだ。麻痺は残ったが命は取り止めた父を「僕が最後まで看取るから」と告げたことに安心したようだ。母だって父と同じ年齢なのだ。そうして「周がいてくれて本当に良かったわ」と言った。

僕はその顔を想像した。多分シワクチャな老婆の顔だったろうね。

家族というのはどんな形でも良いものです。

(写真は1997年正月撮影)

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