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満員電車で踏ん張る前に(もしくは後に)

 満員電車ほど非人間的な移動手段はない。

 文字通り、人と人の間が潰されることで、嫌が応でもお互いの肉体を意識することになるこの空間では、他者の存在は何よりもまず物質的なものとして捉えられる。
 人が、ある範囲では同じ目的を持って、時空間を共有し集まるにも関わらず、そこに社会は生まれない。対等なコミュニケーションを図るために必要な互いへの尊重や想像力は、圧倒的な物質性を前に後景へと退く。
 実際、ある面においては、乗車するにあたってコミュニケーションは必要ない、とも言えるだろう。皆んなで協力しても電車は速くはならないし、意思の疎通を図ったところで料金が安くなるわけでもない。各々が電車に乗ろうと考え、たまたま同じ場所に詰め込まれただけである。電車移動に同乗者の存在が積極的に組み込まれることはないだろう。他者やコミュニケーションを意識するのは、そうでなければ不快となった場合、つまり消極的な(必要がなければ発生しない)、姑息な対応としてとなる。
 従って乗車状態の自己認識は、電車ー乗客(わたしたち)の関係よりも、電車ーわたしとしての関係の方がより自然に受け入れられるだろう。AからBに電車で移動するときに、AからBまで(不特定多数の人々と共に)移動すると意識する人は、あまり居ない。

 しかし、こと満員電車においては別である。
 尊重や想像力が彼方にぶっ飛んでも、人格や意識よりも先に物体としての人間に出会ってしまったとしても、その体温が、体臭が、呼気が、相貌が、身じろぎが、四方八方のししむらを誰かの身体に引き戻す。私と私の身体は、途端に現れた他者の肉体の群れとそれらとの適切な関係(主にパーソナルスペースなど)が築けていないことにショックを受け、また乗降に伴う圧迫とそれへの抵抗に気を取られ、周囲の身体への興味を失い、やがて他者の存在に対し無感動でいることを選択する様になる。 
 乗降に応じた流動は(当たり前だが)乗降口に縛られる。つまり乗るにせよ、降りる人を通すために一時的にホームに降りなければならなくなったにせよ、乗客はみな乗降口から離れたがらないということだ。乗降口の周りに詰まり、通路側がスカスカであることが多い。これは満員電車においては快適な場所(座席や座席脇の背もたれ)が埋まりやすく、また流動性も低めであるから、より快適であろうとしても労力の割には合わないからかもしれない。ぎゅうぎゅうに詰まった人間たちは空いている通路が見えていないのではないだろう。出口ーこれは我々にとって目的地と同じであるーから引き剥がされること、目的地と自分の間に複数の肉体が挟まることで目的が達成できない(降りられない)ことを忌避しているのかもしれない。単に面倒で動かない可能性もある。人を押すことは人から押されるままでいるよりも疲れることだから。
 ここにおいても電車ー乗客の関係は構築されない。乗客は「わたしたち」になることができない。ここで生まれる関係は、満員電車ーわたし、つまり電車・乗客ーわたしの対立である。「満員電車」は人の顔をしている時もあれば、圧力として現れることもあるし、乗降に応じた流動の中にある。私と私の肉体はその一部として満員電車を構成し、また満員電車から圧迫を受け、満員電車に抵抗することになるのだ。
 満員電車から一歩踏み出るには電車と乗客を分けねばならない。そして乗客を同乗者として受け入れなければならない。これは微笑みかけるとか話しかけるだとかいったコミュニケーションを取ることではない(もちろんノンバーバルなものも含めてそういったコミュニケーションを取るべき/取ると楽になれる場合は存在する)。ここに人がいるという認識を手放さないことである。

 そこに人がいるということに感動し続けなければならない。

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