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ヒザ打つな!

少し前に千葉雅也『センスの哲学』を読んだ。千葉雅也の制作論が好きなので楽しみにしていた一冊だ。当方は常々ハイセンスな奴でありたいと願って生きてきた。だから当然センスについての理解も深めたいと思っている。他方で、センスが良いってそれほど大層なものではなくて単に空気を読むのに長けているだけじゃねぇの、と乱暴に結論付けたくなる誘惑にもかられていた。そもそもセンスって何。

読み進めるとリズムについての言及が続くのでびっくりした。憚りながら、俺がいつも言ってる内容そのままのことが書いてあるじゃないかと思った。これまでリズムアナトミー、モヤモヤリズム考、鳥居ゼミといったものに触れたことがある人は、「鳥居がいつも言っている内容と似ているね」と思うのではないか。それがどうしたの、と人は言うのかもしれないが。

しかし、センスとリズムに一体何の関係があるのだろう。たしかにセンスの有無はリズムにはっきりと現れる。たとえば、ジェームス・ジェマーソン、ポール・マッカートニー、リック・ダンコ、細野晴臣、ティナ・ウェイマス、ローラ・リーといったベーシストたちは、音価コントロール、シンコペーション、休符と音符のダイナミクス、ドラムへのアプローチなどのリズムに関する部分で特に華麗なるセンスを発揮している。しかし『センスの哲学』が論じているのは、こうしたリズムにおけるセンスの善し悪しではない。

センスとは「直観的で総合的な判断力」のことだ。これを養うためには、何かに触れる際に、その対象の背後にありそうな意味や目的を考えるのは一旦やめて(ストップ・メイキング・センス!)、対象のもつリズムに敏感になる必要がある。対象が音楽であれ映画であれ小説であれ美術であれ料理であれインテリアであれ、その表現をリズムとして捉えるのだ。

当方は音楽脳なので、本を読んで得たフロイトの「快楽原則」といった知識をリズムについて考えるときのヒントにはしていたが、リズムそのものを音楽以外の分野に応用するという発想を持ち得なかった。だから本当に蒙が啓かれたような気がしている。たしかに、リズムに着目してあらゆるものを捉え直してみたら、世界が豊かに感じられないはずがない。

野暮ったいものを象徴するものとしてキャラクターグッズが挙げられる。特にアパレルである。なぜこれが野暮ったく感じられるのかといえば、キャラクターというものの輪郭の太さが、デザインやテクスチュア、色合いといったものを覆い隠してしまうからだ。要するにキャラクターグッズは意味がわかりすぎるのである。しかしキャラクターグッズは野暮であっても意味不明ではないから、ある種のアート映画や前衛音楽、高級料理のような緊張を与えることはない。

この間、20代の頃は努めて避けてきたバンドTを不思議と着たいと思うようになった。アラフォーに近づき、着るもので緊張したくないという気持ちが湧いてきたのかもしれない。ものを選ぶ基準がセンスの良し悪しよりもリラックスできるかどうかへと移行しつつあるような気がする。もはやセンスなど気にしていたくないんだという心の叫び声も聞こえてくる。しかし本当にそれで良いのか、という逡巡もついて回る。ハイセンスな奴でありたいという欲望を今ここで手放すことが果たして自分にとって好ましいのだろうか。

意図や目的が、ものを評価するもっぱらの尺度になったとき、音楽について一体何が語れるのだろうか。音楽を制作する際に、意図や目的が一切ないとは言わないが、それらと出来上がったものとが必ずしも対応しているわけではない。むしろどうしてこんなことになってしまったのかと途方に暮れてばかりだ。しかしその落差にこそクリエイティビティが宿るような気もする。そもそも意図や目的といったものとあまり関係がなさそうだからこそ、私は音楽が好きなのだった。

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