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【10/30日シリ・オリックス戦●】負けたときも、勝ったときも、日本一になったときも、日本一になれなかったときも、野球はいいものだ。

しんどいしんどい一週間が終わった。しんどくて、つらくて、胃が痛くて、なんかずっとそわそわしていて、落ち着かなくて、やたらおなかがすいて、カロリーがあるものやジャンキーなものやアルコールなんかばかりを欲して、案の定2キロ体重が増えて。

でも、とてもしあわせだった、一週間が終わった。

なんで今日に限って、というミスやエラーを目の当たりにする。なんでいつもできていたことができないの、と、頭を抱える。なにも今日じゃなくても、と思う。これは、「長いシーズンのたった一つの試合」では、ないのだ。「短い日本シリーズの、日本一になるための、最後のチャンス」だったのだ。満員の三塁側内野席で、私はつい、無口になってしまっていた。

後ろに座ったオリックスファンの女性二人は、どうやら遠くから東京まで来たようだった。「正直、この試合はもうないと思ってたからさ」と、おねーさんたちは言った。「まさか、あと一勝で日本一という状態でこの試合を見るなんて、先週は思ってもなかったよね」と。

ほんとうに、勝負というのは、最後まで何が起こるかわからない。去年だって、このカードでそれを痛いくらいに思い知ったのだ。それでも、つい、気が緩んでしまうところもあったかもしれない。「いけるんじゃないか」と、いつもなら思わないようなことを、つい思ってしまっていたかもしれない。でも、そう思えるようになったのはそれは、ヤクルトたちがここまで最後の最後でふんばって、がんばってきてくれたからでも、ある。

だからこそ、ほんとうに「悔しい」と、そう思った。私は普段、あんまり「悔しい」という感情を持つことってそんなにないのだけれど(どちらかといえばすぐ「まあ、仕方ない」と、思ってしまうタイプなのだ、良くも悪くも。)それでも今日は思った。何度も思った。「悔しい」と、そう思った。

ミスが続いたとき、チャンスを生かせなかったとき、何度も、何度も。ここに座っているのもつらいと思った。それは今まで何度だって見た「ボロ負けの試合」とはまた違う、つらさだった。それはビールと一緒に飲み込んでしまうことのできない類の、つらさだったと思う。

目の前の試合のつらさから目をそむけたくてiPhoneを見ると、いろんな友達からLINEが来ている。大学のゼミ友は、むすめちゃんがテレビの前で傘を振っている写真を送ってくれる。前職の会社の同期は、「なんでオリこんなにピッチャーがいいのか、、」と言っている。普段は野球の話をしないLINEグループばかりだけれど、なんとなく、みんながヤクルトの行末を見守ってくれている。

そう、今日、日本で行われているプロ野球の試合はこのカードだけなのだ。いつもはヤクルトの試合を見ていない人たちも、見てくれている。

そうだよな、それが日本シリーズだ、と、思う。それは独特の空気と緊張感をまとっている。でも、そこに立つヤクルトたちは、たぶん去年よりもっと、たくましくなったようにも見える。

だけどそれは、相手のオリックスだって同じだ。いや、去年の悔しさを知る分、もしかするとその覚悟は少し、強かったのかもしれない。

もう半分泣きそうになりながら試合を見守っていると、8回裏、この日何度もファインプレーを見せてくれていたオスナが、静かに、大きな3ランを打った。そうそれは「静かに」打ったように見えた。「静謐」という言葉が、私には浮かんだ。凛とした、落ち着いた、1本だった。

それは今日、どれだけ守備が乱れても、いろんなものが空回りしているように見えても、それでも黙々と手堅い守備を見せ続けてくれた、オスナらしい1本だった。

そうだった、オスナはいつだって、例えば自分が打てないときだって、どんなときも基本に忠実に、堅実な守備を見せてくれた。大切なことは、基本的なことなのだと、いつもオスナに教えられてきた。シーズンのあらゆる場面を思い出して私は、静かに泣いた。

大きな拍手が沸き起こった神宮で、空気ががらりと変わった神宮で、静かに泣いた。

「野球は最後までわからんな!」と同期LINEが来る。なにか変わるかもしれない、と、私も思う。

だけど試合は4対5のまま、9回裏をそそくさとワゲスパックが抑え、そのまま終わった。長い長い、ヤクルトのシーズンが終わった。オリックスの選手たちが飛び跳ねるように三塁ベンチから集まってくる。三塁側からは大きな拍手が起こり、中嶋監督がみんなの前で胴上げをされる。

ヤクルトが優勝を決めた日、隣に座っていた横浜ファンの男性のことを私は思い出す。胴上げされる高津さんに、拍手を送ってくれた男性のことを。

遠くから来た、後ろに座ったオリックスファンの人たちに、「おめでとうございます」と、言って、席を立つ。おねーさんたちは「あ、ありがとうございます…あの、今年も、ありがとうございました!」と、言ってくれる。

野球はいいものだ、と、私は思う。こんなにも苦しくてつらくて悔しくて、これは96敗や16連敗のときのつらさとはまたちがったしんどさで、なんでこんなものを好きになってしまったんだと何度も思うけれどもそれでも、やっぱり野球はいいものだ。負けたときも、勝ったときも、日本一になったときも、日本一になれなかったときも。16連敗したときだって、今日だって、野球はいいものだ。

「なんかさ、しあわせな、シーズンだったね」と、駅まで歩く道、私はむすめに言う。「うん、しあわせだったね!!!今日も、オスナのホームランみたしね!!楽しかったね!!!」と、むすめが笑う。今日の試合中ずっとずっと抱えていたしんどさは、不思議なほど、軽くなっていた。

「こんな時期まで、ヤクルトの試合が見られたんだもんね。それはしあわせなことだね」と、改めて口にする。今日の悔しさはきっと、ヤクルトたちをまた一つ、強くするのだと思う。その悔しさは、ここに立ってそして負けた人にしか、味わえない悔しさだ。それはオリックスをこれだけ強くして、このすばらしい日本シリーズを見せてくれたのだ。

家に帰ると、塾から帰った息子が「終わったねー!!」と言いながら待っていた。「終わったね!!でも、なんか、ほんとこの一週間すごい緊張感やったから、謎の解放感があるわ」と言うと、「わかる、それめっちゃわかる」と言いながら、息子が笑う。ああみんなよくがんばったんだな、もう、思いっきり、やり切ったな、と、家に着く頃には、そう思えるようになっていた。

選手たちも、高津さんも、少しずつ少しずつ、そうやってまた前を見てくれるといいなと思う。この悔しさはまた、強さになっていくのだと、そう信じて。

今年は、息子の受験があったり、むすめの習い事があったり、神宮へ足を運ぶ回数は去年と比べるとずいぶん少なくなった。私が一人で見に行くことも増えた。それは少しずつ、少しずつ、子どもたちが大人になっていくということでもあるのだろう。みんな少しずつ、私の手を離していく。子育ては、手を離していくことだから。

だからこそきっと、この年はごく特別なシーズンだったと、あとから振り返ったときにそう思うのだろう。あの年、受験でずっとバタバタしていて、夫は出張でほとんど家にいなくて、私は一人でなんだかいつもてんやわんやで、でもむねちゃんは打ちまくって、てっぱちは泣いて、日本一は逃したけれどもすばらしいオリックスとの日本シリーズを見せてもらって、とてもしあわせな一年だったのだ、と。

ヤクルトを好きになった年は、ヤクルトが96敗した年だった。好きになってから一番多い順位は最下位だ。でもそんなチームが二年連続で優勝するところを見せてくれた。日本一になるところも、日本一になれなかったところも見せてくれた。

何が起こるかわからないチームだから、また来年はどうなるかはわからない。もちろん、また優勝してくれたらうれしいし、こんな日本シリーズを見せてもらえたら楽しい。だけどそうじゃなくても、「なにが起こるかわからない」といつも思わせてくれるヤクルトたちが、私はいつだって大好きだ。うまくいったりいかなかったり、もがいたりはしゃいだり落ち込んだり泣いたり笑ったり、素直に野球とぶつかるヤクルトたちが、大好きだ。

そんなヤクルトたちの試合を、今年もこんな秋深まる中見せてもらえたことが、やっぱりなによりのギフトだ、と思う。うまくいく日もいかない日も、そこでふんばり続ける姿を見せてくれて、ありがとう。ここまでつれてきてくれて、ありがとう。

しあわせな一年間を、どうもありがとう。

そして、今年も観戦エッセイを読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました。泣く日も笑う日も、ここに書くことで、そして読んでくださる方がいるおかげで、乗り越えてこられた気がします。

また来年、すばらしいシーズンが待っていますように!


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