地下鉄の中で何度も「ありがとう」を言われ、どこかへ飛んで行きたくなったはなし
昨日の夕方。
仕事が終わり、いつものように地下鉄に乗った。
いや、帰りがけにトラブルが発生し、いつもよりも30分遅くモヤモヤした気持ちで地下鉄に乗った。
座席は全て埋まり、隣と肩が触れ合わないくらいの間隔で立つ人たち。
帰宅時間の地下鉄は、満員とまではいかずとも、いつものように混み合っていた。
ドアに一番近い座席に座り、ホッと一息ついてから文庫本を開く。
程なくして、向かいのドア近くに立つ女性から短い悲鳴が上がった。
それに続いてざわめきが起こり、悲鳴を上げた女性の周囲にドーナツ状の空間ができた。
うろたえる女性の背の鞄には、一匹の蛾。
焦げ茶色の羽をハの字に広げた、これこそまさしく蛾!といった蛾。
おそらくヨトウガだろう。
時々羽ばたいては、周囲の人々をビクつかせ、また女性の鞄や手持ちの袋へ止まる。
体が自然に動いた。
座席を立ち、数歩進んで女性の背後に回り込み、声をかける。
「すみません、失礼します」
両の手を、壊れ物を包むようにふんわりと構え、そのままゆっくりと、そして素早く鞄に向ける。
掌にバタバタと伝わる羽ばたき。
潰さないように静かに包み込む。
集まる視線。
聞こえる感嘆の声。
「おぉぉぉ〜」
これは果たして感嘆の声なのだろうか。
それとも、「この女、マジか…」の声なのだろうか。
おにぎりを握るように丸めた自分の両手を凝視しているので、周囲の反応を見て取ることはできない。
しかし、かなりの人が私を見て、驚いている、ような気がする。
女性は泣きそうな表情で私の目を見て、何度も「ありがとうございます」と言った。
元の座席につく。
さて、捕まえたはいいものの、私の降りる駅まではあと10分はかかるだろうから、この手をどうしたら良いものか。
彼または彼女が、包んだ手から這い出ようとジタバタ大騒ぎし、指の隙間をまさぐる感触がなんともくすぐったい。
そのうちに、じんわりと汗ばむ掌。
このままでは10分持たないぞ。
私の手汗で、大切な鱗粉を全て奪いかねない。
それまで両手で包んでいたそれを右手に移し、左手で鞄の中のポケットティッシュをさぐる。
と、人差し指と親指の僅かな隙間から、体をよじって這い出てきてしまった。
「あっ…!」
と思った時には、時既に遅し。
蛾は、再び混雑した地下鉄内にリリースされた。
そりゃあ、得体の知れないジメジメした手の中になんかいたくないだろうさ。
広々とした空間で、再びのびのびと飛翔し始めた。
掌には茶色の鱗粉がまだら模様を作っていた。
「あーあ、やっちまったな!捕まえておけよ!」
とは聞こえないものの、そう言っているような複数の視線が皮膚に突き刺さるのを感じる。
蛾を目で追い、羽ばたく度に逃げ惑う人々。
その中を縫って進む私。
想像してみてほしい。
帰宅ラッシュの時間帯の地下鉄内を、ワンピースを着た女性が蛾を追いかけ、素手で捕まえようとしている姿を。
別の女性の肩に止まった蛾を、再び両手を構えて捕まえにかかる。
女性と目が合う。
目が「どうぞ」と言っている、気がする。
蛾も学習しているのか、いないのか。
二度目は簡単には捕まらず、人の間を右往左往する私を翻弄するかのように地下鉄の中をあちらの女性のリュック、こちらの男性の頭上と飛び回り、ついには天井の空調システムの中へと消えていってしまった。
付近の乗客が空調一点を見つめている。
追いかけるものがなくなった私は元の座席に戻り、周囲の視線に白々しくも「いいえ、私はさっき蛾を追いかけていた女とは別の人です」とすまし顔をして着席し、真上の空調を気にしつつ、再び文庫本を開き読むフリをした。
待てども待てども、空調の吐出口から出てくる気配はない。
そのうちに、蛾を取り除いてさし上げた最初の女性が降りる駅に到着したようだ。
降りる直前、再び私のそばに駆け寄り、「本当にどうもありがとうございました」と割と大きな声で言った。
再び集まる視線。
「いえいえ、結局逃してしまいましたし…」
言うか言わないかのうちに、女性は足早に降りて行った。
いや、私は何の言い訳をしているんだろうか。
というか、車内に私一人残さないでほしい。
なんのはなしですか
文庫本に目を落とし手についた鱗粉を見ながら
ハヤク ツキマスヨウニ。
ワタシモ トンデイキタイナ。
と祈ったはなし。
降りてから、考えた。
次に同じ場面に遭遇したとしても、私はまた同じ行動に出るだろう。
それが、私なんだもの。仕方がない。
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