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奈良井宿 ~戦国時代の変転と江戸時代のお姫さまたち

海外からも注目を集めているらしい中山道(木曽路)…先日馬籠と妻籠を訪れたらそのことをこれでもかとばかりに見せつけられたのですが(笑)。それはまた別の機会に。今回は奈良井宿を。

奈良井宿。妻籠宿と同じくここにも江戸時代からの建物が多数残されているうえに鉄道の駅のすぐ近くとアクセスも良好。さらにほんのちょっぴりですが正真正銘、江戸時代の旧中山道の杉並木が残されているのが特徴となっています。↓の画像。「二百地蔵」と地蔵堂も風情があってステキ!

杉並木の入り口にある八幡神社
今にも前方から江戸時代の人たちが歩いてきそうな雰囲気…本当に短い杉並木ですが。
二百地蔵&地蔵堂
中央は個人的にお気に入りな仏さま。
中央はお気に入りその2。顔立ちからしてどちらも同じ作者でしょう

↓の画像は奈良井駅から南西方向へと宿場町を歩きながら撮影したものですが、遠景に見えるのが中山道の難所だった鳥居峠

これは死角になって見えないな

戦国時代の天文年間(1532~55年)に武田信玄(当時は晴信)が木曽方面への進出を目指し鳥居峠を越えて侵攻、同地の領主だった木曽義康と激突。このときには地の利を活かした木曽義康が一度は撃退に成功。しかし最終的には木曽義康は降伏、最終的には武田氏に服属することになります。

一方、武田家が斜陽に入った天正年間(1573~1592)には木曽義康の子、義昌が武田勝頼から離反して織田方についたうえでこの鳥居峠で「武田vs織田」の形で再度激突、今度は織田方&木曽義昌が勝利、そしてその後武田家は滅亡への道をたどることに…

こうしてみると武田家にとってもこの鳥居峠は「難所」だったようです。なお、奈良井宿にある説明板では武田信玄によって設置された宿場町をルーツとしているとのこと。

江戸時代には宿場町としてだけでなく曲げ物の産地としても知られ「奈良井千軒」と称されるほど反映していたそうです。現在の奈良井宿は江戸時代の風情だけでなく、同地の反映の名残りもほんのちょっぴり窺うことができ…そうな雰囲気を持っています。

木曽氏は武田信玄に滅ぼされることなく服属する形に(しかも後述するようにかなり良い待遇だったらしい)、さらに武田家が斜陽となるや織田信長につき、さらに信長の死後に武田家の遺領を巡って有力大名間で争いが生じるや当初従っていた北条方から家康へと寝返り、さらに小牧長久手の戦いでは秀吉側につく…(この際、妻籠城を家康方に攻められた木曽義昌は撃退に成功。つまり木曽氏は武田信玄と徳川家康両方に勝ったことがある、ということになる!)

こうした「つねに勝ちそうなところにつく」変わり身の早さが許されたのも「攻めにくく守りやすい地形」&「信濃、美濃、尾張の緩衝地帯になりうる立地」という木曽地域の地の利があったからでしょうか。周辺の勢力たちに多大なコストを払って滅ぼすよりも手なづけた方がいい、思わせるような。

なお、この奈良井宿を含む木曽街道(中山道)は京都のお公家出身の女性が徳川将軍家に嫁ぐ際に利用されたことから「姫街道」とも呼ばれていました。また東海道と比較して女性の往来に対してあまり厳しく詮索(いわゆる「入鉄砲に出女」ってやつ)が行われなかったため、一般の女性の利用も多かったそうです。

木曽義康が武田信玄に帰属した際に嫡男の木曽義昌は武田信玄の娘を娶っております(つまり勝頼の義兄弟だった)。この武田信玄の娘の木曽氏への輿入れが「姫街道」のはじまり、みたいな立ち位置になるのでしょうか?

そして姫街道と言われると頭に浮かぶのが↓の画像

江戸東京博物館に展示されているパネルを撮影したものですが、歴代の徳川将軍の母親&正室の顔ぶれ。京都の名家から正室を迎えることが多かった一方で、将軍の母親は三代将軍家光と御三家・御三卿から将軍になった人たちを除くとみな側室の子

さらに将軍の生母で京都出身は3人、うち2人はもともと次期将軍として生まれ育った立場ではなかった綱吉と慶喜。そして紀伊出身も3人いますがこれは紀伊徳川家から将軍になった吉宗と家茂、そして吉宗の子、家重。家康と秀忠の母が三河出身というのも納得って感じ。

こうしてみても江戸で生まれ育った将軍の母親の多くは江戸出身ということになる。

これは江戸時代の間に京都かぶれ、京都文化大好き!な将軍が出てこなかった非常に大きな要因になっていると思います。さらにこの状況が上方とはまた違った江戸文化を生み出した原動力にもなっているんじゃないでしょうか?

東京と京都は相性が悪いのかな?(笑)

この姫街道を通って江戸へ嫁いだ京都のお姫さまたちはこうした状況を知っていたのでしょうか? そう言えば奈良井宿とも縁がある武田信玄も正室は京都の名家のお姫さま(三条の方)だったけど最終的に彼の後を継いだのは彼女との間にできた義信ではなく諏訪の領主の娘(諏訪御料人)との間に生まれた勝頼でした。三条の方が嫁ぐ際には東海道ルートを使ったと思いますが。

↓は現在の諏訪市のイメージキャラクター、諏訪御料人をモデルにした諏訪姫ちゃん

この状況は異なる文化圏に住む人たちが交流するためには長い道のりを踏破するだけでなく、目に見えない垣根を双方が努力して越える必要もある、という教訓なのでしょうか?

それとも、インターネットという文明の利器によって距離の壁を乗り越えることに成功したにもかかわらず異なる文化、国、人種、社会階級の間での交流・理解がうまく進まず、むしろこの文明の利器がかえって分断と対立を深めているような気がする現代社会への警鐘か? 

現代のわれわれはもちろん、前近代に中山道を利用していた人たちの多くも基本的には「目的地へ行って、また戻ってくる」往復での利用が前提だったはず。しかし嫁ぎ先へと向かう良家のお姫さまたちにとっては生まれ育った故郷に戻る機会は基本的にはない片道切符だったはず。当然、街道を通りすぎるときの心境も大きく違っていたことでしょう。

鳥居峠をはじめとした難所を越える度に安堵しつつもどんどん故郷が手の届かない遠くへ行ってしまう寂しさも感じていたのかもしれません。

宿場町の端っこには同町の氏神にして鎮守の杜、その名も「鎮神社(しずめじんじゃ)」があります。現在の祭神は旧下総国の一宮、千葉県の香取神社でおなじみの経津主命。

関東在住の人間としては「なぜ香取神社?千葉県から勧請?」という疑問が当然よぎります。中山道は長野から群馬、埼玉を通過して東京に達するルートですから、千葉県は関係ないはずなんですが…どういうルート(道筋・経緯の両方)で勧請されたのでしょうか?

ちょっと不思議な感じですが、そのヒントは変わり身が早かった木曽義昌の行く末にあるように思えます。彼は家康が関東に移封されたのを契機に現在の千葉県、下総国に飛ばされてしまいます。彼の墓所も千葉県旭市の東漸寺にあります。

木曽氏は彼の息子の代、1600年頃に改易されてしまうのですが…この神社が勧請されたという1618年の頃にはまだ木曽地域と遠く下総国へと飛ばされた木曽氏との関係が維持されており、それが下総国一宮の香取神社が同地に勧請された大きな理由になった…と考えたいのですがいかがでしょうか?

↓は奈良井宿の名所の一つ、木曽の大橋。

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