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石田切込正宗 ~石田三成の名誉回復とブーム到来を期待して

ひと昔前に比べると石田三成の評価がずいぶんと変わったように思えます。隆慶一郎の作品(とくに”影武者徳川家康”)を原哲夫が漫画化した頃から再評価が進み始めたような印象があるのですが…

現在では少なくとも福島正則は軽く越えて加藤清正レベルには達しているんじゃないでしょうか?

そんなわけで↑の画像はかつて石田三成が所有していた日本刀、「名物 石田正宗」。東京国立博物館所蔵。有名な刀剣は撮影禁止が多いなか、同博物館はそのほとんどがOK。SNSに優しい博物館です。

この刀剣を巡っては歴史上の重要な事件が関わっていることで知られています。以下のようなお話↓

1599年、福島正則、加藤清正をはじめとした豊臣政権内の「武断派」の連中が対立していた「分治派」の筆頭格石田三成を襲撃する「石田三成襲撃事件」が発生。それまで両者の対立をなだめていた前田利家が死去したのに乗じた武断派の武将たちが行動に出た形です。

しかしその動きを事前に察知した三成はあろうことか最大の政敵であったはずの徳川家康に助けを求めます。彼の目論見通り家康は三成を保護し、武断派の連中は鉾を収めて事態が収束。

その際に三成は佐和山城に蟄居する処分が下されるのですが、その道中の彼の身の安全を図るために家康の次男、秀康が護衛を担当することになりました。その道中、どうやら無事に佐和山城に辿り着けそうだと判断した三成が秀康に護衛への感謝の意を込めてこの刀を贈りました。そして贈られた秀康は生涯大事にし、彼の死後も子孫(津山松平家)が代々受け継れたのでした。

…まあ、この三成襲撃事件そのものが近年の研究の進歩などで否定的な見解が主流になっていまして、このエピソードも「歴史半分、伝承半分」みたいな感じなのでしょう。ただ間違いないのはこの刀が石田三成所有のものであり、その後秀康の手に渡ったうえで現在まで受け継がれた。そして現代の我々が鑑賞して写真を撮影して、SNSに投稿して承認願望を満たせる環境(?)にある、ということですね。

この三成襲撃事件を巡るエピソードを見ると家康と秀康のキャラクターが透けて見えるような気がします。

三成:「古ダヌキめ、今の時点で俺を消すわけにはいくまい。保護せざるを得ないはずだ」
家康:「こいつめ、人の足元を見てきおったわ。まあいい、ここで恩を売って後でうまくコマとして使いまわしてやろう」

とばかりに虚々実々のやりとりが「三成vs家康」では繰り広げられていたイメージが浮かぶのに対して三成と秀康の間には刀の贈呈を通して義に厚い侍同士の交流がうかがえるような印象。親子関係がよくなかったと言われる家康・秀康のキャラクターの違いが見て取れるようです。

秀康は「古き良き戦国武将」らしい剛毅な性格をしていたとよく言われます。彼が父の家康に嫌われたと言われる(関ケ原・江戸開府後の彼の一族の待遇は決して悪くないと思いますが)理由にはいろいろなものがあると思いますが、こうした一本気な生活がその理由のひとつだったのでしょうか?

それとも父親に嫌われていたからこそ「俺はタヌキにはならん、イノシシだ!」的な反骨心を子供の頃に身につけていたのでしょうか。

家族間の葛藤はなかなかよその人間には理解し難い…というのは時代を問わないのかもしれません。

この「名物 石田正宗」は実際に使った時についたと思われる傷がいくつか見られます。この画像だとちょっと見にくいですが…先端近くの棟(峰)にあるのがわかりやすいでしょうか。ちょっと凹んでいるのが見えますか?

これらの傷がいつできたのかは不明らしいですが…あくまでこれは推測に過ぎませんが、修理・修繕されていないことから秀康に贈呈された段階ですでについていたのではないか?それを見た秀康が「三成公から贈られた状態をそのまま残そう」と判断し、その判断を子孫も代々踏襲したために傷が現代まで残った…のではないか?

そうなると誰がつけたか?三成が刀を振り回して暴れまわるシーンを想像すると楽しいのですが(笑)。ちなみに三成の前は宇喜多秀家が所蔵しており、彼から三成に贈られたとのこと。この二人の関係もビミョーな印象がありますが。

ただし三成自身はこの刀を秀吉から拝領した、と公言していたらしく、そんな刀を秀康(秀吉と縁があった)に贈ったあたりにも三成と秀康のステキな関係がちょっとうかがえるような気もします。

↑は博物館の説明板。

この説明板にもある通りこれらの傷から「石田切込正宗」の異名も持っています。

↑は同じく東京国立博物館所蔵、三成が所有していた脇差(と説明)です。「石田貞宗」と名付けられています。この脇差に関してもちょっと面白い伝承がありまして。家康はじつは捕らえた三成を処刑せずにその身柄を榊原康政に託し、ひそかに天寿を全うさせたのだとか。そして彼のこの脇差が榊原家で伝来することになった、と。

一方史実(?)では関ケ原後に三成を捕らえた田中吉政がこの脇差を受け継いだとなっているようです。いずれにせよ、榊原家に代々伝来されてきたひと振りとのこと。

これはわたしの個人的な感想ですが、日本の歴史において日本刀は樹木と同じくらい、歴史と伝承/伝説を結びつける力(魅力)を持った重要な存在ではないか、と思います。このふた振りの刀はまさにそんな歴史と伝承が交錯する面白さを教えてくれるのではないでしょうか。

というわけで石田三成の名誉回復というか汚名返上が進んでいる昨今。考えてみればもともと日本人は敗者が大好きな判官贔屓の国民性を持っています。となるとこの風潮をもうひと押しするようなきっかけがあればたちまち大ブレイクする可能性もあるのではないか!

近い将来、彦根市が大英断を下して佐和山城を復元、彦根城と2大観光スポットにする仰天プランも登場するかも!

…はい、妄想です。


↑はカッコいい石田三成のシャープペンシル。いつかこのペンを使って壮大な大河ロマンを書くつもりであります(嘘)

しかし「佐和山の狐」って…ゲームの「戦国無双シリーズ」の影響でこの通り名が使われるようになったらしいのですが…彼の名誉回復の足かせになっちゃいそうな。

最後に、宣伝というわけではありませんが、過去に日本刀について書いた投稿もご紹介↓。ご一読いただければ幸いです。


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