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京都の広沢池とステキな石仏たち

前回の鎌倉の投稿に引き続きまして、先日出版したわたくしの電子書籍の宣伝を兼ねて収録した内容に関連した歴史・観光の投稿を。今回は京都の広沢池

電子書籍は↓で。ご一読いただければ幸いです。

こちらはその電子書籍について紹介した投稿です↓

前回の「鎌倉&日本刀」についての投稿は↓で

京都の右京区嵯峨にある広沢池。京都を代表する観光エリアの嵯峨野・嵐山エリアからちょっとだけ離れた位置にあります。後述するこれまた京都を代表する観光エリア、仁和寺・龍安寺・金閣寺エリアと嵯峨野・嵐山エリアとの中間やや後者よりの位置でしょうか。

紅葉しているよう見えますが、もちろん今年撮影したものではありません(笑)

この広沢池(ひろさわのいけ)は別名遍照寺池(へんしょうじのいけ)、989(永祚元年)に寛朝(916-998)によって造営されたと伝わる人工の池です。彼が遍照寺というお寺を造立する際に境内の庭池として作られたそうです。別名もこのお寺の名前から。もともとこの地を開拓したおなじみの秦氏が元になった池を造営し、寛朝がそれを整備・拡張した、との説もあります。

遍照寺境内の説明板

現在でも月見の名所として知られていますが、かつては景勝の地として多くの有名人が観月を楽しみつつ詩歌・管弦を楽しんでいたようです。

例えば鵺退治でも知られる源三位こと源頼政(1106-1180)が広沢池を題材にして以下のような歌を詠んでいます。

「古の人は汀に影絶えて 月のみ澄める広沢の池」

芭蕉翁の「夏草や兵どもが夢の跡 」をちょっと彷彿させるような史跡のロマンと無常観の両方を醸し出すなかなかにステキな歌ではないでしょうか?

こんな粋な歌を詠むほど京都の生活に馴染んでいるように見える人がまさか70歳を超えてから平家打倒の兵を挙げるとは誰が予想できたか!そして彼自身がまさに世の無常を体現する最期を迎えることになろうとは! 

人間の内面はなかなか他人には理解しづらいものなのでしょう。

ほかにも広沢池に関しては西行法師、後鳥羽院なども歌を詠んでいます。後鳥羽院に関しては次の投稿でちょっと取り上げる予定です。

広沢池を題材に詠まれた歌の数々

この広沢池、もともと池に突き出るような形で「中島(または観音島)」と呼ばれる小さな島がありました。ただ時の流れによる地形・池岸の変化などの影響なのでしょう、江戸初期の寛永年間(1624-1644)に消失してしまいました。

現在では明治に入ってからそれを再現した人工島が存在しています。そしてその際にこの「新・観音島」を象徴・守護するような存在として導入された千手観音像が現在でも祀られています。それが↓

台座を除いた本体の高さが約160センチくらい、現代人からするとちょっと小さめですが、前近代の日本人にとってはほぼ人間と同サイズの仏さま、となるんじゃないでしょうか。穏やかなでかわいくもある(これは現代人の視点ですが)顔立ち、よく表現された衣装や側面に彫られた腕など非常に味のある優れた出来栄えだと思います。

この千手観音像、実はもともとは京都の右京区御室にある蓮華寺に安置されていたものを持ち込んだものです。そしてこのお寺の境内にはとてもステキな石仏が多数安置されています。

蓮華寺と言えば左京区にも同じ名前のお寺があってネット上の「京都の観光スポット案内」などでは両者が混同されて紹介されていることもあるのですが(苦笑)、左京区にあるのは天台宗の寺院、こちらは真言宗の寺院、そして地名の由来にもなっている「御室」こと仁和寺のすぐ近く、それこそ道を隔ててすぐ真向かいにあります。

京都を代表する寺院のすぐ近くなうえにこのお寺は入り口のたたずまいがとても地味なので↓

通りかかっても目に留まりにくい面があるのですが、山門(門はありませんが)を抜けて境内に足を踏み入れるとステキな石仏たちが出迎えてくれます。


メインとなるのが↑の「五智如来」。蓮華寺の由来によるとちょうど元祖観音島が消失する寛永年間の1641年に当時荒廃していた寺院の最高を目指した際に木喰僧(肉・穀物を避けて木の実など食べながら修行をした僧侶。多数の仏像を遺した木喰明満がとくに有名)の坦称上人に五智如来像の制作を依頼、それに応じた坦称上人が荒行などを経て完成させた…とあります。

さて、改めてこの五智如来と広沢池の観音島にある千手観音像のお姿を比較してみましょう。

お顔立ちがとっても似ていませんか?これらはすべて同じ時期に、同じ人物(つまり坦称上人)によって作られたと考えられています。いわば兄弟分、そして千手観音は出張中、みたいな立ち位置でしょうか。

ちなみに五智如来とは…↓はWikiのページ。

この蓮華寺の五智如来の顔ぶれは↓となっています。

これは釈迦如来

こちらは阿弥陀如来

ひとりだけ宝冠をかぶってらっしゃるのが密教の頂点に立つ大日如来

こちらは宝生如来

そしてこれは薬師如来

顔ぶれが違います。なにか意味があるのでしょうか?お寺側の意向か、それとも依頼を受けた坦称上人が荒行の途中で感得した5つの如来をそのまま制作したのでしょうか?

あと蓮華寺にはきゅうりで病を追い払って無病息災を願う「きゅうり封じ」というとてもおもしろい秘法も行われています。金閣寺や仁和寺を訪れる際にはここにも足を運んでみてはいかがでしょうか。

蓮華寺の境内には五智如来のほかにもステキな石仏が多数。

そして池・湖・海の岸辺近くにある島にはほぼ例外なく弁天様を祀った祠があるものですが…この広沢池の観音島にもあります。

この広沢池のすぐ近くには池を作った寛朝僧正の侍児を祭神として祀ったその名も「児(ちご)神社」なる神社もあります。神社の縁起によると寛朝が亡くなった際に彼を慕っていた侍児が悲嘆して広沢池に身を投げて死んでしまった、そこでその霊を慰めるために建立されたのがこの児神社だそうです。

美しい話と見るのか怖い話とみるのかちょっと異様な話と見るのか、現代人のわれわれに判断が難しいですが、平安時代から多くの人たちから愛されてきた名所だけあってこうした伝説も生まれて、現在まで受け継がれているようです。こちらはそこそこ有名なスポットですが、京都を訪れる際にはぜひ。

なお、広沢池は嵯峨野・嵐山と仁和寺・金閣寺エリアの中間くらいに位置していると書きました。その気になれば広沢池を経由して両方のエリアを徒歩で移動することも可能です(わたしは実際にやってみました)が…

まあ、あまりおすすめしません(苦笑)体力的な面よりも…歩いていてあまり面白いエリアではありませんでした。


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