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都人たちは赤色オーロラの夢を見たか?(Did Metropolitans Dream of Red Aurora?)

今月はじめに北海道でオーロラが肉眼で観測されたニュースがちょっと話題になりました。こんな感じで↓

そんなわけで機を見るに敏、話題のネタに乗っかってしまおうじゃないか、というわけで歴史と絡めて投稿してみることにしました。

理系も絡む内容なのでタイトルもSF小説風に。元ネタがわかる方は笑ってください(笑)

日本で見られるオーロラは「低緯度オーロラ」と呼ばれるもので上記のページにも少し書かれているように太陽が大規模な爆発を起こして(核兵器の1億倍くらいのエネルギーだそうです)大量のガスが吹き出され(コロナ質量放出)、地球のまわりに「磁気嵐」が発生することによって起こるものです。この磁気嵐によって大量の電子が低緯度にまで達してオーロラを作り上げる…というメカニズムとのこと(わたくしは根っからの文系人間なので確信を伴った表現はできないのですが/苦笑)

大規模な磁気嵐は頻繁に起こらないのですが、前回北海道でオーロラを肉眼で見ることができた20年前の2023年10月にも発生しました。この時には太陽で爆風が何度も生じて磁気嵐が繰り返し発生し世界中の広い範囲でオーロラが見られると同時に電波障害が起こりました。観測史上でも非常に珍しい出来事だったため、起こった時期にちなんで「ハロウィン・イベント」と名付けられているそうです。ですから研究家の間では同じような大規模な磁気嵐に対して「そりゃハロウィン・イベントみたいだな」なんて言い方をするとか。

で、日本では歴史資料としての文献が古代から現代まで非常に充実しているため、文献の中にはオーロラを記録したと思われる描写がいくつか登場します。

↓の書籍はそんな歴史資料に登場するオーロラ(「赤気」と表記されている)をピックアップしつつ、それが本当にオーロラだったのか、オーロラならどんなオーロラだったのかを検証したものです。

「日本に現れたオーロラの謎」 片岡龍峰・著 同人選書

「同人」とありますが同人誌ではありません(笑)

文系と理系が協力して行われた研究を元にしたもので、学際の重要性が叫ばれている現代らしい、そして一部で叫ばれている「文系不要論」を嘲笑うような面白い内容となっています。

まず百人一首でおなじみの藤原定家の日記、「明月記」に登場する「赤気」の記述。建仁4年(1204)正月十九日(現在の暦で2月21日)に「赤気」の言葉が出現します。↓のような内容。かなりはしょってますが。

「日が暮れてから北・北東に赤気が出た。遠くの火事の光のようだ。白いところが5か所あり、赤い筋が3、4筋。雲間の星座でもないらしい。恐るべきことだ」

上記のURLのページでは映像も見ることができますが、低緯度オーロラはまさに定家の記述を思い起こさせるような形をしています(赤い筋で構成されている…ように見える)。明月記にはほかにも月食や流れ星などの天体現象に関する記述が見られており、内容も正確なことから2019年にはなんと「第1回日本天文遺産」に認定されています。

文系だけでなく理系にとっても貴重な遺産として公式に認定されている、しかも天文学者の間では藤原定家を「すぐれた科学者」として認めているそうです。すごいですね。日本初のルネサンス・マンといったところでしょうか。

さらに、1770年9月(旧暦で明和7年7月)には記録から辿れる範囲内では人類の歴史上最大規模と目される磁気嵐が発生し、北は北海道から(当時北海道は日本に含まれない、といったツッコミはなしで)南は宮崎までオーロラが観測されたと考えられています。

そしてこのオーロラのことを記した記録も多数残されています。本居宣長(1730~1801)もオーロラを見て「赤気あり」と記録を残しているとか。

↓のURLはそんな1770年の赤色オーロラを記した記録のひとつ、「星解」とタイトルで秀胤という僧侶が書いたとされるおもに彗星をテーマにした文献。古典籍を公開している「国書データベース」のサイトです。

あまり良くないことなのかもしれませんが🤦‍♂️、オーロラを記したページをキャプチャーしてみました。↓の画像です。

そして↓は尾張藩士の高力種信が書いた「猿猴庵随観図会」に描かれた赤色オーロラ。国立国会図書館のアーカイブのページです。

こちらも当該ページをキャプチャーした画像を↓

こちらはオーロラだけでなく、オーロラと目撃した人たちまで描いているとても面白い構図となっています。桶を手にして屋根に登っている人たちの姿を見ることができますが、どうやら彼らはオーロラを火事と思ってあわてて屋根に水をまこうとしているようです。まさに水を汲もうとしている人の姿もあったりして。

一方で左端には興味なしとばかりに居眠りしているらしい僧侶、右側には興味があるのかないのかひたすら太鼓を叩いている人なんかもあって面白いですね。

そして改めて今回北海道で目撃された赤色オーロラの記事を見てみましょう。これらの絵が赤色オーロラを表現したものだとすぐにわかりますよね?

昔の人はよく見ていたなぁ、と感心させられます。

この本ではほかにも日本書紀に登場する「赤気」の記録やもしかしたら覚えている方もいらっしゃるかもしれない、1958年(昭和33年)に新潟から東北、北海道にかけて広い範囲でオーロラが見られた(東京でもちょっと見られたらしい)現象と映画「南極物語」でおなじみのタロ・ジロのエピソードとの意外な関係などについても書かれています。日本書紀の「赤気」は日本歴史上初のオーロラの記録であるだけでなく、天体現象全体で見ても初の記録だそうです(日食や彗星よりも先に出てくる)。

日本書紀ではオーロラを「雉の尾に似ている」と鳥にたとえて描写しています。そして天武天皇の時代に「朱鳥」という元号が使われています。なぜこの名前が使用されていたのか明らかではありませんが、この日本書紀のオーロラについての記述を考えると赤色オーロラの発生が契機になったのではないか?という推測もできると思います。後世には天変地異が原因で元号が変更されることもあったわけで。

しかも、元号は天智天皇が実権を握っていた時期に「大化」と「白雉(これもオーロラを少し想起させますが)」が使われたものの、その後30年ちょっとの間断絶しています。ですから現在まで続く元号は「朱鳥」からスタート(再スタート)したと見ることもできるでしょう。

となると日本の元号の歴史はオーロラをきっかけにはじまったのだ!なんて妄想も抱きたくなるというものですが…

この本は2020年に出版されたものですが、太陽の活動は11年周期で強まったり弱まったりするそうで、次にもっとも活発になるのが2025年と書かれています。著者はそのとき赤色オーロラを見ることができるのでは、と予想しているのですが、2年早く実現したことになります。

となると、今後2年の間に再びオーロラを見られる可能性があることになります。

さらに、太陽が一度大規模な爆発現象を起こすとしばらく続くそうです。藤原定家の明月記にも何度もオーロラが出現したことが書かれていますし、20年前の「ハロウィン・イベント」でも最初の出現から1ヶ月後に再びオーロラが出現しています。さらに今回もすでに11月にも肉眼では見えないレベルで観測されていたそうです。

となると、2年後どころか近いうちに磁気嵐が発生する可能性が高くなります。オーロラが見られるだけならロマンティックでよいのですが、磁気嵐は停電などのトラブルを起こす恐れもあります。20年前のハロウィン・イベントではカナダで大規模な停電事故による9時間にも及ぶブラックアウトが発生しました。

さらについ昨日、NTTドコモで大規模な通信障害が発生しました。設備の故障が原因だったそうですが…ほんとうにそれだけなのか?

じつは映画「南極物語」のタロ・ジロが南極に置き去りにされてしまったのも磁気嵐がもたらした電波障害が大きな原因の一つでした。

これから年末にかけて旅行シーズンが到来します。帰省や旅行の計画がある方は磁気嵐がもたらす思わぬ通信障害や停電のリスクを考慮したうえで行動する必要があるのかもしれません。

注意せよ!

…と不安を煽って締めくくるのもアレなんで藤原定家の話でも。今や天文遺産ともなった彼の日記「明月記」は彼が19歳(数え)だった1180年から1235年まで56年にも渡って書き綴られたもので、しかもほぼ全文が漢文。それゆえ資料価値が極めて高い一方で素人にはとても手が出ない代物なのですが…

そんなわけでこうした注釈の本が頼りになります↓

「定家明月記私抄&続篇」 堀田善衛・著 ちくま学芸文庫

「明月記」には赤色オーロラが発生した建仁4年正月(1204年2月)の前月、建仁3年12月には天皇・上皇の御所が3回も火災に遭って炎上したことが記されています。しかもいずれも放火だったらしい。

当時の京都の無秩序ぶりをまざまざと見せつけられますが、この記述を見ると俄然オーロラの記述にあった「遠くの火事の光のようだ」の描写が俄然面白くなってきますね。おそらく火災で京都の空が赤く染まる光景に見慣れていた定家はこのオーロラを見た時にまず「またどこかで火事が起きたのかよ」とうんざりしたのではないでしょうか。でもよく見たらどうやら火事ではないらしい、と興味を持って詳細を記すことにした、と。

それと面白いところではそのちょっと前の11月には後鳥羽院のお供で奈良の東大寺を訪れています。ちょうどこの時期にあの南大門の仁王像が完成しており、彼もあの堂々たる姿を見たはずなのですが、明月記には感想はおろか仁王像について何も書かれていない。

天体観測は熱心だけど仏像をはじめとした芸術にはなんの関心も持っていなかった人物だった疑いが濃厚です(笑)

なぜ彼が現代の天文学者からも認められる「科学者」のような観測と記述を行ったのか?ちょうどオーロラが出現した時期は世情が大荒れに荒れていました。同年には源頼家が殺害され、翌1205年には畠山重忠が殺され、さらにこの事件ともかかわってくる牧の方の事件も発生、北条氏がいよいよ本格的にその腹黒い牙をむき出しにしはじめています。

さらに定家個人としては1204年に父親の俊成が死去、1206年には彼の主家であった九条家の良経が死去(九条兼家の子)といろいろと大変な時期でもありました。そして世情が不安定ななかで後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対していろいろと画策をはじめたような時期でもあったようです。

こうした状況から考えると彼の天体観測と記述は世の異変や災厄の兆しを天体現象から探るための試みではなかったか?という気もします。正確な記述という点では科学者である一方、やはり彼の本質は中世人(それも古き良き貴族世界を忘れられない)だったのかもしれません。

余談ですが、今回紹介したオーロラに関する資料はみな民間人によって作成されたものです。本来なら陰陽寮や天文博士、天文方などが記録に残しているはずなのですが、実際にはないようです。

これまでの投稿で何度か「安倍晴明をはじめとした陰陽師を現代的な視点で天文学者とみなすのには注意が必要ではないか」という主張をしました。このオーロラの記録に関する状況はそんなわたしの主張を裏付けてくれるのではないか?とも思います。数十年、場合によっては数百年に一度の天文ショーを記録しない人たちの活動のどこが天文学なんだ?ってな感じで😆。

もうひとつ、地球の磁場について。数年前に「チバニアン」が話題になりましたが、地球の磁場は不動ではなく変化します。ですから方位磁石が北を差す方向は時代によって変わることになります。そして時代によって方位磁石の「北」と自転軸における北との間にズレが生じる。

伊能忠敬は海外でもけっこう評価が高いようですが、彼が地図を作成した時代はちょうどこのズレがない時代だったそうです。それに対して現代は方位磁石の北が自転軸から西に7度ほどずれるとのこと。

よく「伊能忠敬の測量術は現在でも再現が難しいほど高度なものだった」と言われますが、実際に現在に彼の測量術で地図を作成しようとしても磁場の影響でズレが生じる可能性が高いらしい。

歴史に残る偉業を達成するためには運も必要なのかもしれませんね。文字通りの「天運」。


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