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ゲームはセンスのある子供のやる事?

お仕事中の話。
私が請け負っているお仕事に50代くらいの方が初めて応援に来た。
色々な作業を口頭で説明し、不馴れながらもこうした方が良い等、コミュニケーションをとりつつ仕事を進め、17時の定時に差し掛かる少し前くらいの時には気が緩み、雑談などに花を咲かせながら作業をしていた。
その時その方の趣味が気になったので聞いてみた所「しいて言えばバイクかな」と。
元々私はバイクや車が好きだった経験から、話を弾ませるのは得意な方だと思っていたのだが、知らない名称や愛車を盗難にあったりと散々な思い出話を先に出されてしまい、自分のコミュニケーション不足を実感した。実感したというか、自分から誤って地雷を踏んでしまったというか、そんな感じだろう。

その方と話しをしている最中「自分はゲームが好きなんです」と説明した時に返ってきた言葉が「私にはゲームのセンスが無くてね。ゲームはセンスのある子どもがやる事だよね」という言葉が返ってきた。
今は古い固定概念である「ゲームは子供がやる事」を思い出したのと同時に、センスが無いとゲームは楽しめないのだろうかと疑問に思った。
この方は他人から「おまえはゲームのセンスが無い」と言われた経験があるのだろうか。それともただ自分が勝手に「私にはゲームのセンスが無い」と決めつけて楽しむ事を放棄したのか・・・。
自分が好きな趣味を他人へ理解して貰うというのは、なかなか難しいなと感じた瞬間だった。

あるストリーマーが「コメントでゲームのセンスが無いとか言って来る奴、ゲームにセンスもクソも無えだろ」と強い口調で言っていた。
私はその通りだと思ったし、ゲームのセンスを赤の他人がとやかく言うのは何なのだろうかと疑問にも思ったのだが、最近のコメント欄というのは正直見るに堪えない場合が多く、それに対して優しく伝えようとした言葉だったと思う。しかし、アンチコメントをしている自覚の無い人のコメントというのは、やけに声がデカく感じてしまう(この現象って名前ついてるんだっけ?パーティーカクテル効果?なんだっけ?忘れた)。
私はゲームが好きだし、そのゲームを楽しんでいる姿を配信しているストリーマーを見るのが大好きだし、人によって様々な捉え方をしながらもゲームを進めている姿を見ているのも楽しく、新たな発見があったり、楽しい場面も苦しい場面も配信を通じて皆で共感している時が何よりも楽しい時間。
私からするとその楽しい時間を赤の他人がしてはいけないコメントでヒリつかせた瞬間が一番苦手。そのヒリつきが常時タイムラインにドカドカ流れるのが旧TwitterやSNS。
人との繋がりがしやすくなった時代になったとは言え、他人に対しての配慮が欠けたコメントを見かけると見るのを辞めたくなる。それが今の私の正直な感想。

少し話が脱線したが話を戻すと、センスとか関係なく楽しいと思いながら日々出来る事がたまたまゲームだった、というのが私たちゲームが好きなゲーマーであるべきだと思う。
好きでやっている事なのだから嫌になったら辞めれば良い。それもまた趣味でやる事だと私は思います。

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