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パスト・ライブス

イギリスのNetflixで「Past Lives」が配信されていたので視聴
まだ日本語字幕はなく、英語字幕と韓国語字幕のみ。配給はA24。


考察すべきポイント

①何も起きない?

薄い中身の映画が批判されるのは映画に対する認識の違いから生まれるものだと思う。
アクション映画やホラーが非現実性を反映させているように、ヒューマンドラマにも全く現実味のない設定があることは多々ある。
その中でも、映画を通して起伏の少ない物語を見たい人はこの映画が向いていると思うし、気にいると思う。
そのような作品たちに対して、特に何も起きていない、という感想を抱くのは[ノマドランド]やジム・ジャームッシュ作品(彼の場合は大きな出来事をさらっと描く時もある)でもお馴染みであるが、少し的外れ手であるとも言える。
本作では幼少期に別れた人とオンライン上で再開するも、次に二人が会うときにはお互い自立した大人として再会するのである。
これはどれだけ壮大な話だろうか。もし自分の身でも起ころうものなら、それを「何も起きていない」とは捉えないだろう。

②登場人物に人間味がない?

登場人物は基本的に(他の映画と相対的に)感情を見せない。もちろん笑顔や涙はあるけれど、所謂映画的で劇的な演技はしていない。
でも、そんなものは当然ではとまで僕は思ってしまう。A24の特徴というわけでもないけれど、割と引き(遠くから)で人生を撮る癖がある。
そうなると細かい心情までは完全に汲み取ることはできないし、そもそも現れてもこない。


しかし、
①人は他者の感情をそこまで読み取ることはできるだろうか
自分の人生における人間関係ですら、他者の感情を完全に理解できないのに、
②人は現実でoverreactすることは少ない
という2点を押さえれば、『Past Lives』がどれほど人物描写に長けた映画化がわかる。


本作品のような演技こそ評価されるべきだと思うの私だけだろうか。
SNS上で、若い世代は「Best Acting of All the time」と称してさまざまな名作映画の過剰な演技をmeme化させている。これは「叫んだり、泣いたり、激しく動きを作ることがいい演技なのか」という問いを表している。
それに、だからこそ人生や人との関係の脆さや儚さが表現されているという点を忘れてはならない。
いかにもな演技を見るとおぉ〜と感動はするけどそれはただ映画に対する感情であり、そこから自分の人生に当て嵌めようとはならないのである。
その点、Past Livesはリアルな人生観を突きつけてくるため、自身で考える余地が残されている。

③何が悲壮的なのか?

スクリーンプレイは全体的にカラーが霧がかかったようにグレーで、色彩も制限されている。

それが原因か、冒頭と最後のバーのシーン以外物悲しさが常に付き纏っていた。
無論それだけが要因ではない。
映画のコンセプト自体を考えると、ウキウキするものでもないし、かといって過度に悲しい物語でもない。だってただ人と人の別れや再会を描いているだけで、それは人生の大半を占めるものである。
つまり、その平凡さも私たちは何か「足りていない」という意味で悲しさを感じるのではないだろうか。
もう一つは時間への恐れだと思う。
登場人物たちは常に時間を気にしているし、過去や未来についてばかり語る。現在どうかというよりも、昔共にいた人や起きたこと、これからどうなるかを語る。
それは当然と言えば当然だとも思う、なぜならDeath& Taxesから人間は逃れられないという言い回しがあるように、時間は人が最も恐れるものと直結しているとも言えるからだ。
「あなたが探していた少女はもういない」「僕らは大人だね」
みたいなセリフがあったと思うのだが、そこにも現れている。
時間は残酷で、特に映画や小説では「~~年後」とか書いておくだけで時間が一周にして過ぎ去る。
かといってどうしようもないし、それを受け止めてポジティブに生きるフリをしなければ人生は楽しくない。
それは側から見ると喜劇だし、本人たちからすれば悲劇だ。
要するに、人は劇的な動きを求めすぎていると思うし、それを映画に求めるという行動も納得いくものである。しかし僕は本作品を’じゃない方の’映画として捉えてもいいし、そういった直線的な映画が一番好きとしてもいいと思う。
それが増えてもっと多く制作されればいいな、とか考えるわけだ。


④メタ発言による悪役性の緩和

ノラとヘソンの関係を応援する構造に組み込まれた観客からすれば、アーサーは完全なヴィランだ。
昔からの関係のヘソン、二人の数十年の月日をダイジェストで見た後に見るアーサーはいわゆる「ぽっと出」の男だ。

しかしノラにとっては愛する人であるし、同じ業界にいる人間だ。
その情報を見ている側に、ヘソンと同じ分量で伝えるのは無理があるため。アーサーの「まるで僕が間男みたいだね」というセリフで、その悪役性を和らげている。

⑤言語、その影響

言語は壁にもなるし、共通のツールにもなり得る。
除け者にされるように感じることもあるだろう。

アパートで初めて二人が会った時、お互いが互いの母語で会話するシーンがある。ヘソンは拙い英語で、アーサーも拙い韓国語で挨拶する。ここで重要なのは会話のスムーズさや情報の正確性ではなく、互いの言語へのリスペクトを示すという行為そのものなのである。

普通ならば気まずい雰囲気になってしまうシーンをこの会話を通して、二人の男は少し心を近づけたのでは無いだろうか。

対照的なのは冒頭と後半のバーのシーン。ノラとヘソンがIn-Yunの話で盛り上がるともうアーサーにできることはない。ノラも時折通訳をするが、短いし大事な部分を伝えていない。この時ばかりはアーサーが気の毒になるが、ノラはそのような場面に何度も遭遇したのではないだろうか。幼少期に海外に移り住むということは文化面でも精神面でも苦難が多い。特にアジア人移民としては、思うところもあっただろう。だがこの「同郷の友」というヘソンの属性を考えると、ノラが再開して抱いていた感情は、アーサーが心配するような恋心ではない。僕が思うには、ノラは、自身がそこまで韓国よりの生活ではないと自信を持っているが、寝言が韓国語なほど染み付いている。ヘソンとメールするときには、ハングルの文字を確認していたほど馴染みがないのに。このような空白感を埋めれるのは、故郷の人間だけであり、それがたまたま初恋の人であるだけだったのである。

一見、異文化交流はサブテーマ、男女間の恋愛がメインテーマの映画のように見えるが、単純に異国の地で暮らすことの難しさや母国への憧れを上手く描写している。

⑥Z世代はIn-Yunをどう受け止める?

”Right person, wrong time, Maybe in another Universe"
と言った表現は少しのミレニアル世代とZ世代の恋愛観を表す一つの指標であるとも言える。TikTokでViralになって以来すっかり一つのジャンルとなった"Hopecore"や”Real”といったタグづけからも、若い世代が、これまでとは違った恋愛観や人生観を持っていることがわかる。


彼らは、In-Yunをどう受け止めるだろうか。来世では結ばれるかもしれないから今世は諦めよう、という希望に満ちた概念でありながら、それが辛いことに変わりはない。
しかし、所謂「運命論」を知らず知らずのうちに支持する彼らにとってIn-Yunという考え方は救済のようなものではないだろうか。
受け入れやすく、希望をくれる概念、これを手放す理由があるだろうか。

テクノロジーについても、Z世代は特徴的な世代だと言える。彼らは生まれた時からインターネットの網に雁字搦めで生きてきた。もちろん多くのメリットもあり、グローバル化や遠く離れた家族と連絡できることもそのうちに含まれる。
しかし、そもそもノラとヘソンはSNSを通じて会わなければ、この無情な結末を迎えなくて済んだでは、という疑問もわかる。
そこで救ってくれるのがIn-Yunという考え方なわけである。
「今回は、会えたばかりだけど、来世や来来世ではさらに近づけるはずだよね」
そんな暖かくも儚い気持ちの逃げ道を教えてくれる、そんな考え方なのだ。


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