日本語から漢字をなくすべき

わたしは基本的には日本語から漢字を廃すべきと考えています.以下の議論は故高島俊男氏の著書におおきく影響を受けていることを最初に記しておきます.

そもそも言語というのは音声であり,文字というのはそのかげにすぎないといいますよね.ひとが口に音声を発し,それを耳で聞いて意味をとらえるのがことばなわけです.いわゆるパロールです.言語が文字をもったのは人類史上ではつい最近のことですし,世界の大多数の言語はいまだに文字をもっていません.

日本語だってながいあいだ文字なしでじゅうぶんに機能してきたはずですが,千数百年前に中国から漢字がはいってきて,それがすこしずつ日本語のなかで使われるようになりました.とくに問題になるのは,明治以後,西洋の事物や観念がおおくはいってきて,それらが和製漢語として日常生活に使われるようになり,生活や思想の中枢部にはいりこむようになったことです.

問題は同音異義語がおおすぎることです.たとえば「キノー」という音は「機能」「昨日」「帰納」「帰農」などをふくみますが,日本人の話は,音声をてがかりに頭のなかの漢字をすばやく参照して意味を推測する,というプロセスをなんどもくりかえしながら進みます.もとの中国語はそうではなく,個々の音に意味をもっていて,耳で聞けばすぐ理解できました.しかし日本語にはいると,もはや音自体にはなんの意味もなくなり,いずれかの文字をさししめす単なる符牒にすぎません.

このように日本語は,音声そのものが無力であるために,(あたまのなかの)文字のうらづけがなければ意味をもちえないという,おそらく世界でも稀有の言語としてあります.音声が意味をにないえないというのは,言語としてはまったく不健全です.もちろん明治時代の和製漢語によるゆたかな造語力は,そういったあたらしい事物や概念を日本語としてとりいれたというすばらしい成果をえました.そのかわり日本語は言語として奇形的な形に発達したといってもいいすぎではないでしょう.

日本語の表記をローマ字(ローマ字会)にしても,カナ文字(カナモジカイ)にしても,よくもわるくも漢字に寄生されている現代の日本語にとって,漢字がなくなることはただ言語が幼稚化するだけですから無理な話です.もともと文法や音韻構造が根本からまったくちがう中国語から単語をかりてくるというのが無茶だったのですが,もう歴史をもどすわけにはいきません.残念ですが,日本語はいまのままの漢字に寄生され,あるいは漢字に寄生しながら,当面はやっていくほかないというのが結論です.

漢字はあくまでも日本語ではなく外国語だという意識をもち,やまとことば由来の語はできるかぎりひらがなで表記する,そしてなるべく漢語,和製漢語を最小限の使用にとどめ,できれば将来的に廃止する,そういったこころづもりでわたしはいつも文章を書いています.

(追記)
中国語(漢語)では,原則としてすべての単語が一音節です.そしてその単語がひとつの文字で書かれます.ひとつひとつの文字がそれぞれひとつひとつの単語であり,それらはすべて一音節というわけです.一語が一音節だから,それをひとつの字で書くという方式です.

日本語の音節は百前後ですが,中国語にはだいたい1,500くらいあると言われています.一音節のなかには声調(音の高低の変化)というものがあって,さらにその数は増えることになります.そして漢字ひとつひとつはみな,それぞれ固有の音と,その音があらわすそれぞれの意味をもちます.さらに中国語では漢字(単語)ふたつをくみあわせることによって,さらにおおくの連語がつくられていきます.

漢語の単語はすべて一音節であり,それを一字で書くのだから,漢字のよみはすべて一音節です.しかしこれが日本にはいってくると,ほとんどが二音節になりますが,これは日本語には音韻の数がすくないため,日本人が一生懸命まねして発音しようとしたのですが,口が不器用なために二音節に化けたにすぎません.

たとえば「カン」と発音する漢字,漢,感,環,韓,幹,間........などは,中国語では意味が異なっていて,かつすべて発音がちがうわけです.しかし日本語の発音ではすべておなじであり,すなわち無数の同音異義語が存在しています.だから日本語は音声だけで「カン」ということばは自立できず,かならず「漢」という文字のうらづけがないと意味をもちえないというわけです.

音声だけで自立できない言語というのは,実際,日本語がそうだからいまさらいってもしかたがないのですが,どう考えてもことばとして正統的ではなく,奇形的と表現してもいいすぎではないでしょう.「もとの中国語はそうではなく,個々の音に意味をもっていました」の意味はこのようなことです.

韓国やベトナムが「漢字に寄生され,あるいは漢字に寄生しながらやっていく」という道を取らなかった話です.韓国でもベトナムでも,中国から漢字がはいってきて,一部上流知識人を中心に漢字が使われていました.すでに指摘があるように,日本語の訓読みに相当する発音はなかったようですが,中国語の音をそれぞれの言語で発音していました.

たとえば「ベトナム」にしても中国語の「越南」のベトナム語読みですよね.韓国朝鮮語においても漢字由来の単語はかなり多くあります.近年までどちらもいまの日本語表記とおなじように,チュノムやハングルを用いた漢字交ぜ書きがなされていましたが,戦後,すべての漢字が廃止され,アルファベットやハングルのみでの表記になりました.

なぜ日本語にとって漢字の導入が不幸だったかというと,古代のその段階で日本語の言語としての発達がとまってしまったことです.当時の日本語はまだ幼稚な段階にあって,たとえば抽象的なものや概念をさすことばはほとんどありませんでした.日本語がそのまま自然に育ったならば,いずれ自ら抽象的な概念をつくりあげながら,やまとことばのうちにそうしたことばもすこしずつできあがっていったと思います.

しかし漢字がはいってきてしまいました.日本語よりはるかに高い発達段階にある漢語が流入してきたため,日本人はそのまま漢語を用いるようになり,日本語はみずからのなかにあたらしいことばを生みだしていく能力をうしなってしまったのです.日本語が漢語の浸食をうけなければ,たとえば「理」や「仁」や「義」や「徳」といった概念に相当するような,しかしそれらとはすこしちがって,さらに深みのある抽象概念が,日本人の生活のなかから誕生したかもしれません.その可能性が絶たれてしまいました.

いま仮に漢字を廃しても,やまとことばのなかからそういった抽象概念をあらわす単語を生みだすためには何百年とかかるでしょう.現実的ではありません.しかしすこしずつ漢字を制限して,痛みを感じながらも,そういった日本語をきたえるこころみをしてもいいのではないか,とわたしは考えています.韓国朝鮮やベトナムはすでにそういったことをはじめているではないかと.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?