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「失われし時を求めて」

件の東日本大震災の直後、食べるものがなくてパンにふりかけをかけて食べていて、久しくその習慣を失っていたのだけれど、ふと偶然、当直あけの病院食のごはんに「おとなのふりかけ」をかけて食べたところ、その味から忘れ去られていた当時の過去が生き生きと思い出され、それをきっかけにかつての記憶がつぎつぎに蘇ったのであった。震災から一週間くらいは物資の流通が完全にストップしてしまい、仙台の郊外にある宮城県立こども病院に寝泊まりしていたわたしたちも食べるものがなくなり困っていたのだが、幸か不幸か病院の機能自体は、かろうじて生き残ったために、仙台市内の妊産婦さんが殺到して、夜も昼もなく働き続けていた。たまにテレビを見ると、津波の直撃を受けて潰滅した沿岸部の映像がえんえんと流されていて、それにくらべれば後背地のここはだいぶラッキーであって、まだまだ幸せだとお互いになぐさめあっていたのだが、それでもヘリコプターなどで集中的に支援物資がつぎつぎと送られ、炊き出しなどをしている光景をみると、言ってはいけないけれどずいぶんうらやましくも思ってはいた。病院の事務方を中心に、残り少なくなったガソリンを節約しながら仙台市内外を走りまわって、いろいろなつてをたどってはスーパーや農家といったところから食料調達につとめ、たまに多量の卵とか野菜などが病院に運びこまれるたびにわたしもその搬入を手伝ったりしたのだが、それがわたしたちの口にはいることはついぞなかったのである。というのもこどもや妊婦といった入院患者を欠食にするわけにはいかないから、必然的にそういった食料は患者用に優先的に使用されることになるわけで、わたしたちはいつもひもじい思いをしていたものであり、そのとき激ヤセしたわたしは、10年以上たったいまにいたるまでその体重は回復していない次第であったのだ。震災から数日後くらいのことだっただろうか、病院に隣接しておかれているマグドナルドハウスの斡旋で、あのハンバーガーのマグドナルドから、停電のために保存が難しくなった多量の食材が病院に寄付され、いつも支援物資が頭上を素通りするのをうらめしく横目で追っていたわたしたちだが、ひさしぶりに肉が食えると小躍りすることがあった。しかし冷凍された牛肉やポテトがわたしたちの目の前に現れることは結局なく、医局のラウンジのでかいテーブルのうえに、燃えるゴミ袋のようなでかい袋に詰め込まれたパンがどんと置かれただけであった。バンズbunsと呼ぶらしく、これも震災で覚えた瑣末でどうでもいいような多くの知識のひとつとなったのだが、なにしろこのハンバーガー用の丸パンというやつは味がなくパサパサしていて、とてもそれ単独ではのどを通らないような代物であり、あいにく病院内は自家発電で、電力使用を通常の10-20%までおさえていたため、ポットはおろかお湯をわかすことすら御法度で、わたしたちは途方にくれたものであった。それでも空腹にたえかねているわたしたちは、思いあぐねてそのパンにふりかけをかけて食べてみたところ、これがピザとはいかないまでもなかなか珍味であり、意外とイケることに驚いたという次第である。もともとうちの病院の病院食は、こども向けのためかおかずが少なく、そのかわりご飯だけは大盛りであり、ふつうに食べると必ずおかずがさきになくなるため、わざわざみなで金を出しあって、「おとなのふりかけ」を大量に買い込んでいるのであった。こういった非常時にふりかけは非常食にもならないと思っていたのだが、ここで活躍することになるとは思ってもおらず、ぜひとも全国の病院で非常用のふりかけを買いこんで備蓄しておくことをお勧めする。それにしてもこのあいだの当直あけに、たまたま「おとなのふりかけ」をご飯にかけて食べて、思わず4年前の記憶が鮮明に蘇ったところをみると、あのときかけたふりかけは「ごまおかか」味に違いなかったのである。

「第一部 仙台愛子のほうへ 」完

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