坂本龍一頌
坂本龍一が東京芸大在学中に武満徹を批判し,コンサート会場の入り口で武満批判のビラを配っていたところ,武満自身がでてきていろいろとやりとりしたというエピソードは有名です.「なんとなく言いくるめられた」とあとから坂本は述懐しています.そのときの批判の主旨は,その数年前に書かれた武満の曲「ノーヴェンバー・ステップス」が,邦楽器によるいわゆるジャパネスクを安易にとりいれた大衆迎合の音楽というものでした.
坂本が尊敬していたもうひとりの音楽家である高橋悠治が,当時はマオイズムに傾斜していて,その思想の影響があったのだと思います.なぜかよく覚えていないのですが,YMO以前の坂本のアルバムである「千のナイフ」をわたしはもっていて,そこではたしかに時代の流行のロマンティシズムからはなれたピアノの現代音楽っぽい響きにあふれていました.当時はあまり好きになれなかったのですが.
「ノーヴェンバー・ステップス」で世界的な評価をえた武満は,逆に高橋悠治・アキ兄妹や坂本龍一の才能をはやくから高く評価していたようです.当時のラディカリズムによる坂本からの自分への批判も,だからむしろほほえましいものだったかもしれません.そういった時代でした.
70年代の体制批判も,その後の高度消費資本主義の波に飲みこまれてしまい,そのなかで志を保つためにはYMOのような音楽に発展せざるをえないのはよく理解できました.「表層に戯れる」とか「資本主義の裂け目を移動する」とかいろいろな表現がはやりましたが,いずれにしろYMOのポップミュージックも武満の映画音楽もすべては大衆の娯楽の対象として消費されていくことになったわけです.
テクノポップやロックはともかく,映画音楽での坂本龍一の成功は,音楽の前衛性とわかりやすさの絶妙な融合にあるのではと思っていました.しかし昨年のライブ配信などを聞いていると,それ以上のものがあることを感じます.現代の音楽を代表するピアノソロとしてどの曲も歴史に残る水準のものではないかと思ったのでした.
美しい旋律がなんどもなんどもくりかえされる曲の構成は,フィリップグラスの影響を受けているようで,実は時代をこえる普遍性をもっているようです.ミニマリズムのコンセプトにきわめてちかい抽象化された音楽であり,いっさいのよけいなものをそぎおとした静謐さがあります.そこには現代の資本主義が産みだすいっさいの過剰さを明確に否定しているように思えます.
坂本龍一の音楽は好きだが,近年の彼の反原発の言動はいただけなかった,というコメントが複数あったのですが,反戦反核反原発の思想は彼の生涯を一貫しており,彼の音楽とは不可分のものであったということです.曲はいいが思想や言動はきらいだというのは,あまり理解していないただ感覚的な好き嫌いの話にすぎないでしょう.
ひとり高橋悠治の行きかたは,孤立のなかに沈潜していったようにみえて,いまからみればその軌跡は鮮やかです.水牛楽団によるエスニック音楽への傾斜やバッハの音楽の独特な解釈によるCD録音など,いま再評価したいところがあまた存在します.武満徹,高橋悠治,坂本龍一という日本の現代音楽を代表する3人の評価は,後世どのようになっていくのでしょうか? とても興味があります.
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