続・漢字が日本語をくるしめる

ドイツ語を勉強していたころ,ドイツ語に性のちがいさえなければ,あるいは格変化さえなければもっと楽に学べるのにと思っていましたが,これは大多数の外国人学習者に共通した思いだったでしょう.フォークが女性なのに,ナイフは中性,スプーンは男性となっているのはなぜか.こんな理由のない愚劣な区別などはいらないとつくづく思ったものです.

だからといって,ドイツ語の性をやめたり変えたりするわけにはいかないのもよくわかっています.それぞれの言語がもつ構造上の特性,すなわち文法にたいして,学ぶほうがいろいろと注文をつけることはできないのはあたりまえです.母語として使っているドイツ人にとって,名詞の性などはあたりまえに区別して使っており.どんなに無学なドイツ人でもまちがえるひとはいるはずがない.それが言語です.

ある言語を外国人に学びやすいようにどんなに単純化しようとしても,ことばそのものの骨組みをかえることはほとんどできません.ではなにを変えられるかというと,それは文字です.ここで気をつけなければならないのは,文字はことばではないということです.しかし世間ではあまりに文字とことばを一体化してうけとり,両者はきりはなせないと無意識に考えられています.

この基本的で単純なことをわれわれはかんたんに理解しがたいほど,現代社会では文字と言語がほとんど同一視されています.この区別をていねいに説きなおしたのがソシュール「一般言語学講義」です.逆にいうと,これだけ高度の内容をふくむ名著が,最初のほうのかなりの部分を,パロールとラングの差についてあてざるをえなかったのはおどろくべきことです.

わたしはテレビをほとんどみませんが,ラジオはよく聞きます.つまり文字はみないけれども,ことばそのものはよく聞いているわけです.この音のつらなりをもっとも自然な形でうつしだそうとするならば,ローマ字で書くのが適切です.日本語を分析的にみようとするならば,ローマ字書きが日本人自身にもどんなに多くのことを教えてくれるかはかりしれません.

たとえば「爪」と「摘む(つまむ)」は,漢字で書くとまったく関係のない別の単語のようにみえますが,「tume」と「tuma-mu」と子音,母音にわけてローマ字書きしてみると,eとaというたったひとつの母音のちがいで区別されることがあきらかです.aでおわるときは動詞ですが,eになるとその動作を示す名詞となるわけです.語源が同一であることをすぐに理解することができます.この日本語にそなわったたいせつな文法能力を,漢字は別の文字をあてがうことで分断し,消しさってしまうのです.

そもそも「つめ」とか「つまむ」といった漢字渡来以前のやまとことばに,なぜわざわざ漢字をあてなければならないかの意義がわたしには理解できません.それまでの日本にはなくて,あたらしくはいってきた事物や概念をあらわす単語であれば,漢字で表現するのはしかたがないのかもしれません.それらはほとんどが漢字の「音」であらわされます.しかし訓,すなわちすでにあったやまとことばに対応する漢字を,日本語のなかにとりいれるのはむだ,というか害悪にすぎないのではないかと思います.

日本語の文法や発音はどんなに改良しようとしても,もはや手のつけようがないことはあきらかです.しかし文字は比較的たやすく変えることができます.せめて文字のつづりをわかりやすく,だれにでもおぼえやすくしておくことはとてもたいせつなことだと考えています.ドイツ語などは正書法が時代とともに改良されてきています.1872年のドゥーデンドイツ語正書法辞典には「文字は学者のためならず,すべての人民のためにある」とすでに高らかに宣言されています.

日本人がたくさんの漢字をおぼえていることを得意がり,そのこった使いかたをひとにみせびらかせていい気になっているのは,いかにもみにくい姿だとしかいいようがありません.日本人だけで日本語で話をしている日常生活のなかでは,日本語がおいつめられていることを感じることはないでしょう.しかしそとではきびしい言語の国際競争にさらされていて,ビジネスや学問で国際的な場にのぞむ機会のあるひとにとっては,そういった思いは切実なのです.

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