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大人の片思いって難しい|「愛がなんだ」を読んだ


 大人が片思いをするのは、難しい。

少なくとも高校生のころまでは、周りに片思いをしている友達なんてたくさんいた。誰々ちゃんは誰々くんが好きらしいよ。えー、あの隣のクラスの?彼女がいるって聞いたよ。そんな会話ありふれていた。

けれど26歳になった今、周りに片思いをしている人なんて、ひとりもいない。いつからこうなったのか、とにかくいない。

女の人は特に、結婚を考えるといろいろ計算する。仕事は?年収は?住んでいる場所は?つい最近まで、わたしも純粋に好きな人と結ばれたい、と思っていた。だけど今新しい人と出会うと、無意識にチェック項目をクリアしているか判定している自分がいる。

偶然これを読んでいる女子中学生、女子高生諸君。わたしが特別計算高いのではない。主観だけど、多くの女性は26歳になると、こうなるのだ。大人の片思いは、難しい。

だけどこの本の主人公・テルちゃんは、大人になっても堂々と片思いをする。読んでいるこっちが不安になるくらいに。なんで「ふつうの」大人は、テルちゃんのような片思いができなくなるんだろう。


 「尽くす」ということ

テルちゃんは、想いを寄せるマモちゃんに、徹底的に尽くす。それはテルちゃんにとって最重要事項で、最優先事項だ。
だから、深夜シャワーを浴びているときにご飯に誘われれば行くし、セックスをしようと言われればする。公共料金の払い込みを頼まれれば済ませる。マモちゃんが自分ではない女性に渡す人気のチョコレートだって、代わりに並んで買う。

それができなくなるのが、大人だ。得るものと与えるものを天秤にかけてしまう。だから、割に合わない、と思ってしまう。好きだから尽くす、そんな簡単には考えられなくなる。でもテルちゃんにとっては、少し違う。

言いなりになる、とか、相手がつけあがる、とか、関係性、とか、葉子はよく口にするが、それらは彼女の独特な人間関係観、もしくは恋愛観である、と、私は思っているので、えへへ、と曖昧に笑う。私のなかに言いなりだのつけあがるだのという言葉は、存在しない。存在するのはただ、好きである、と、好きでない、ということのみだ。
多くの恋人たちは部屋で何をして過ごすのだろう。言いなりにならないようにしたり、つけあがったりしないようにしながら、ごはんを食べて並んでテレビを見るのだろうか。そんな毎日のなかで、けれど、相手を好きだと思うかたちのない気持ちや気分を、いったいどんなふうに示すんだろう?

 「尽くす」ことはテルちゃんにとって、「相手を好きだと思う気持ちを示す手段」だ。好きであればあるほど、尽くす。マモちゃん以外のことすべて、なんならテルちゃん自身のことまで犠牲にしているように見えるけど、違う。テルちゃんが望んでそうしているのだ。好きだという気持ちが伝わるように。

だけどそんなの悲しい、と私は思う。

「ねえ、そんなの、ばっかみたいだと思わない?私はおかあさんのことが大嫌いだった。旅館みたいな快適さを提供してまで会いにきてもらいたいって思うなんて、みじめだと思ってた」

主人公テルちゃんの親友・葉子ちゃんが放った言葉。わたしはこの言葉がすきだ。

葉子ちゃんのお母さんは、葉子ちゃんの父親の、不倫相手だった。だから、いつも一緒にはいられない。いつ来るかわからないから、いつ家にきてくれてもいいように、常に葉子ちゃんの家は、彼にとって快適な旅館のように整えられていた。葉子ちゃんはそれを「ばっかみたい」という。


葉子ちゃんのお母さんは、彼が会いに来てくれた時、自分に会いに来てくれたのか、快適さを求めてやってきたのか、判別がつかないんじゃないか。それでもいいという人もいるだろう。どっちでもいいから会いたいんだ、と。
だけどそれは結局、悲しいことだと思う。わたしに会いたくて来てくれたのだ、と思うことによってこそ満たされる。愛されていると感じる。

テルちゃんの場合も同じだ。テルちゃんの声が聴きたくて連絡をくれたのか、頼みごとをしたくて便利だから連絡をくれたのか、わからなくなっては意味がない、とわたしは思う大人なのだ。尽くしたら尽くした分、自分も愛されている実感が欲しいのに、尽くすほど、自分が満たされる瞬間がなくなっていく。

だから大人にとっては、テルちゃんのような、「尽くす」片思いは難しい。


 

「好きでいるのをやめる」

よく聞く言葉だ。別れたけど、相手に未練がある人。告白したけど、フラれた人。もう、好きでいるのはやめる。そういう状況で、この決心する人は少なくないと思う。だけど、好きでいることって、やめることができるんだろうか。

葉子ちゃんが好きで、葉子ちゃんに尽くしてきたナカハラくん、という登場人物がいる。ナカハラくんはある時、「好きでいるのをやめる」選択をする。 

「ナカハラくん、直接会って話を聞いてもよくわかんないままだけど、じゃあ本当に、ナカハラくんは葉子を好きでいるのをやめるわけ?」言いながら、変な言いまわしだ、と思った。好きでいるのをやめる、なんて。
「やめるっす」ナカハラくんは即答する。
「もう会うこともないだろうし、連絡もしないだろうな。あっ、テルコさん、西荻方面まで送ります」

 「好き」という感情って、自分ではコントロールできないから「好き」なのだ。ひりひりと、自分ではどうしようもない感情を、やめてしまえるなら便利だ。だけどできない。
できるのは、「好きにつながる行動をやめる」ことだ。連絡しない、会いに行かない、思い出さない。その結果、好きだった気持ちを忘れられるかもしれないだけだ。

 

大人は、好きにつながる行動をやめたら、まだ戻れるところで恋愛をすることが多い、と思う。のめり込まない。もっと言えば、のめり込めない。

ナカハラくんはおそらく、交際もできないのに葉子を好きでいること、好きでいて、あれこれと彼女の欲求を満たしてやることに疲れたのでは、けっしてないだろうと思った。たぶん、自分自身に怖じ気づいたんだろう。自分のなかの、彼女を好きだと思う気持ち、何かしてあげたいという願望、いっしょにいたいという執着、そのすべてに果てがないことに気づいて、こわくなったんだろう。

 戻れなくなることが怖いのだ。もしこの恋がかなわなかったら・・・。大人になるにつれて身につけた計算高さのせいで、そう簡単にはのめり込まないように、コントロール不能にならないように制御している。

だから大人にとっては、テルちゃんのような、「尽くす」片思いは難しい。

 

 

まあわたし、のめり込んだ恋愛して今まさに苦しんでるんだけどね!!!誰か助けて!!!彼を超えるイケメン紹介して!!!

映画みてないから見ようかなあ。


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