『百物語』第一夜「見覚えのある人影」 ※第二回cakesクリエイターコンテスト エントリー作品※
ある日のこと。
スマートフォンをいじっていたら、妙なことに気がついた。
スクロールする画面の中に、いつも同じような、「見覚えのある人影のようなもの」が映り込む気がしたからだ。
それは、いつも同じようなタイミングで起こる。
たとえば、Twitterを開く。
タイムラインをスライドさせながら、ぼんやりとスマートフォンの画面を眺めていると、あるときに「見覚えのある人影のようなもの」が、ふっとタイムラインをよぎっていく。
気になってタイムラインをスクロールさせて戻ってみるのだけれど、もう同じような人影を映した画像や動画は見当たらない。
「いったい、何が写っているのか?」
具体的に聞かれても、僕にはうまく答えられない。ただ、とにかく、それは「見覚えのある人影のようなもの」なのだということしか言えない。
これは、Twitterに限ったことではない。
Instagramだと、その現象は、より顕著に現れる。
たとえば、ストーリーズをぼんやりと流し見している。この手の画像や動画を眺めているときは、ほとんど何も考えていない。画面を見ているような、実は何も見ていないような、特に感情の起伏のない時間だ。
そんなときに、スワイプを使って高速でストーリーズをスクロールしていると、やはり、ある瞬間に「見覚えのある人影のようなもの」が映り込む。
どきっ、として、またスクロールさせていくつかのアカウントをたどって戻ってみるのだけれど、やっぱり、同じようなものは見つからない。
こんなときが、たびたびある。
人に話をしてみても「そんなこと、あるはずないよ」なんて言われる。だから、まあ、そんなことはあるはずないよなと思いながら、今日も生きている。
しかし、最近、気づいたことがある。
それは、だんだんと「見覚えのある人影のようなもの」が、遠ざかっていっているように思えるということだ。
よくある怪談話ならば、ここできっと、人影のようなものがだんだんと画面に近づいてきて、ある日それが、部屋の中に……なんて、ありふれたホラーのような話になっていくのだろう。
でも、僕が体験しているのはその逆で、「見覚えのある人影のようなもの」が、だんだんと僕から離れていっているように思うのである。
僕は、なぜか、そのことに気づいたときに、なんとも言えない淋しさを覚えた。
なぜ、淋しいのか、僕にもよくわからない。
ただひとつだけ言えることは、「見覚えのある人影のようなもの」は、実は何か重要なことを僕に示唆していて、それを伝えようと、SNSを通じて、僕のそばまでやってきていたような気がするのだ。
それにもかかわらず僕は、それが示唆していた本質的な意味を汲み取ることができず、時が経ち、受け取るべきだったメッセージを受け取らないままに、今を何の気なしに過ごしているように思うのである。
僕は、そのことを考える時、とても空虚な気持ちになる。
そして、そんな空虚な感覚さえも、僕は忘れようとしつつある。
Twitterや、Instagramを開いてみても、そこにはいつものタイムラインがただ並んでいるだけだ。
たくさんの人たちの日常の言葉や、写真や、映像が、洪水のように流れ続けている。
実際、僕自身がこうして発信する、小さな物語も、どれだけ力を込めて書いたところで、どこまで届くのかすらわからない。
ごうごうと流れる情報の波間に沈み、言葉はどこか、遥か彼方まで飛んでいく。意味があったのか、なかったのか。それすらもわからないまま、渦の中に吸い込まれていく。
そうした情報の波の音を聞いているうちに、僕はだんだん無感覚になる。
人は生きている限り、ものごとを忘れ続けていく。
楽しみも、喜びも、悲しみも、情熱も、怒りも、あらゆる感情をくぐり抜けて生き、やがて、すべてを忘れていく。
手からこぼれ落ちる砂のように、忘れ去ってしまったものは、取り戻すことはできない。
SNSのスマートフォン越しに姿を見せていた、あの「見覚えのある人影のようなもの」は、今はもう取り戻せなくなった、いつか昔に忘れ去ってしまった、大切な「何か」の象徴なのかもしれない。
あとがき
とりとめのない話になってしまったけれど、これで『百物語』の第一夜を終える。
『百物語』の語り部は、僕自身。
生活する中での実体験や、インスピレーションを元にした話を書く。
怪談話のときもあれば、因果話、不可思議な話の時もある。もちろん、これは自由に描く物語なのだから、実体験を誇張して書いているところもある。「実話なのか」「創作なのか」みたいな野暮な質問は、狭井悠の『百物語』を読む上では一切忘れてもらいたい。
ただ、ひとつだけ決めていることは、この場所では、今の僕にしか書けないものを書こう、ということだ。僕は僕なりに、ただただ感じたままに物語を書くので、読んでくださる皆さんも、読み終えた瞬間に感じたことを、大事に持ち帰っていただければ幸いに思う。
『百物語』は、第一夜を語り終え、残り九十九夜を語り切るまで続く。
もしも最期までお付き合いいただけるならば、来たるべき百話目まで、どうぞお付き合いください。
それでは、みなさま、良き丑三つ時を。
さよなら。
追記
「第二回cakesクリエイターコンテスト」なるものがあることを知り、いろいろと考えた結果、狭井悠(Sai Haruka)の「百物語」をエントリーさせてもらおうと思い、第一夜を再投稿させていただいた。
「百物語」シリーズは以下のマガジンのとおり、現在、第三夜まで続いている。
個人的に体験した出来事、人から聞いた出来事、ときおり創作なども含めて、「百物語」をひとりで語りきってしまおうという企画である。現在、月1〜2回ほどのペースで投稿を続けているのだけれど、このペースだと百話語りきるまでに数年はかかってしまいそうだ。
そこで、もしもcakesさんのような媒体で連載をさせてもらうことになったら、もっと気合いをいれて、自分に締め切りを持たせてコンスタントに連載できるかもしれないと思い、今回の応募に踏み切ることにした。
ひとつだけ、ここでアピールさせていただくとすれば、僕が書く「百物語」の話は、「他にはない」「僕にしか書けないもの」であるという自信を確かに持っているということだ。
また、「百話まで書き切ることができるのか?」という質問があったとすれば、「必ずできる」とここで宣言しておきたい。人生で体験することほど、数奇なものはない。語りたいことはたくさんある。
昨今、ウェブに溢れるコンテンツはどれも、実用的なものや、目に見えるものについての話が多すぎるような気がしている。
しかし、もともと物語というものは、人生における目に見えるものだけでなく、目に見えないものも含めて語るものである。そうした物語が、民間伝承として語り継がれ、神話や寓話を生み、今に至るという脈々と続いた歴史があるはずだ。
僕が書く「百物語」では、noteおよびcakesという媒体を通じて、現代の民間伝承をやりたいと思っている。もしも連載の機会をいただけるならば、面白いものを残していけると感じている。
ぜひとも、僕にチャンスをください。
よろしくお願いいたします。
サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。