見出し画像

『ビリーブ 未来への大逆転』女性の権利と法律を考える

今年の個人的ベストムービー?

今年に入ってからいくつか面白い映画に出会いましたが、この映画はその中でも一番かも、と思うものでした。
2018年に公開された映画で、NetflixやHulu、アマプラでも見ることができるので、加入している人はぜひ見てみてください。

邦題は「ビリーブ 未来への大逆転」。
原題は「on the basis of sex」です。

直訳すると「性別に基づいて」となります。
洋画って、原題のほうがメッセージがストレートに伝わっていいのに!
と思うとき多い気がします。
シリアスなものよりも明るくホープフルなタイトルが好まれる傾向があるのでしょうか?

映画の背景

1956年がこの映画の始まり。
ハーバード大学法学部は女性の入学が認められてから6年が経ちました。

この年の女性の入学者は9名。
主人公のルース・ギンズバーグはそのうちの一人で、2020年に87歳で癌で亡くなるまでリベラル派の判事として執務を続けました。

入学後の歓迎会では当たり前のように男性が女性をエスコートし、学部長から自己紹介として「男性の席を奪ってまで入学した理由」を話すよう求められます。

顔を見合わせる女性たち。
「くだらない理由」だと途中で話を止められる人も。

約70年前のシーンであり、現在ではこのようなあからさまな性差別はないかもしれません。
しかしこの「男性の席を奪ってまで」という意識は、今でも人々の根底にはあるような気がしてなりません。

成績優秀だったにも関わらず、女性で子どもがいること、ユダヤ系であることなどから高等裁判所や大手の法律事務所に就職できず、大学で「性差別と法」について教えるルース。

原題の「on the basis of sex」が出てきたのは、その授業内におけるセリフにおいてでした。
アメリカの法律における男女の不平等を挙げ、「Discrimination on the basis of sex is legal.」の部分です。つまり、「性別に基づく差別は合法である」、というセリフの部分でした。

映画では、その後法律上の男女の不平等を解消するために奮闘するルースの姿が描かれます。

当時のアメリカにおける法律上の性差

当時、1969年代のアメリカでは陪審制を取り入れていましたが、長らく白人男性に限られていました(Wikipediaより)。
男性と平等の条件で女性が陪審員を務めることができるようになったのは1975年になってからであったということです。

男性のみの陪審の場合、女性が男性を殺害した場合などにおいて、男性が女性を殺害した場合よりも重い罪に問われる場合がありました。
また、女性は法律により残業が禁止されていました。そして、家族が亡くなった際の社会保障給付金は、男性ならもらえるものが女性ではもらえないものがあったようです(映画のセリフからの解釈なので、正確性に欠けるかもしれません)。

これらのことから、性に基づく差別は「法的に」認められていた、ということです。
その前には「法が男女を差別すれば、男女は平等にはなれない」というセリフがあります。

日本でも、配偶者控除や親権の取りやすさなどで平等でないと感じられる法律もあるかと思います。

法律上の男女不平等を是正するために

あるとき、税法を主に扱う夫(弁護士)から興味深い案件を教えてもらいます。

原告は男性で、母親の介護のために看護師を雇ったが、申請者が男性であることで税金の控除が受けられなかった、というものでした。当時のアメリカでは申請者は女性に限られていたためでした。

この裁判で憲法違反が認められれば、法律上の性差別を認めた先例になると考え、ルースはこの原告の男性の弁護を決めます。
原告が「男性」というのがポイントで、性差別を訴えた女性は今までにことごとく敗訴してきていたのでした。

なぜ声を挙げるのか?なぜ変化を求めるのか?

ルースは裁判に向けて周到な準備を始めるのですが、100年の敗訴の歴史を前に、その準備は途方もないものです。
彼女の原動力は何なのでしょうか?

弁論の最後で、ルースは以下のように述べます。

私たちの子どもたちは法律に縛られています。性差別で機会が奪われてしまう。214項のような法律(問題となった税法)が差別を認めているからです。
そのような法律は1つ1つ変えなければなりません。手始めとなる先例を作ってください。

私がジェンダーの問題について本当に考え始めたのは、自分の人生に結婚や子どもを持つことが現実味を帯びてきたころでした。
子どもにどんな未来を与えたいのか、どんな風に過ごしてほしいのか。

子どもが機会を奪われないような社会であるよう、自分ができることをしていかないといけないという思いは、ルースも同じかもしれません。

「席を奪った」女性は、男性以上に頑張ることが求められる

冒頭の学部長の発言ですが、なんだか女性活躍の難しさが凝縮されているような気がします。

この意識は、奪われた男性だけでなく、奪った女性の中にもずっと付きまといます。

女性だって理系を選んでいい、リーダーになっていい、稼いでいい、機会は平等だ。
では求められるものはどうだろうか?

女性に席を奪われた男性の分まで活躍を求められ、数が少ない分、どんな成績なのか、どんな言動をとるのかに注目が集まりやすくなります。そして家族のケアはできているのかなど、男性の場合はあまり着目されないプライベートな部分も話題になりやすいように思います。

例えば女性政治家を目指した場合、どんな政策を掲げるのか、家族はいるのか、服装はどうするか?フェミニンにスカートで?男性に負けないようにパンツスーツで?

男性も同じように思われているだろうか?
同じような視線を浴びているだろうか?

だからこそ、ルースの次の言葉は秀逸です。

ルースの言葉

彼女が語った言葉として以下のものが有名です。

『最高裁判所に何人の女性判事がいれば十分か』と聞かれることがあります。私が『9人』と答えるとみんながショックを受けます。でも9人の判事が全員男性だったときは、誰もそれに疑問を抱かなかったのです。
ルース・ベイダー・ギンズバーグが遺した15の言葉

・・・確かに!という言葉しか出てきません。

しかも、その男性のみの状態が何十年も何百年も続いていたことを考えると、近年話題になっている「女性の数を合わせればいいってもんじゃない」という意見を受けてもなんてことなく思えます。

男女平等のテーマって、当たり前といえば当たり前すぎて、映画の中のように改めて男性に「法律の中に男女の不平等はあってはならないのか」と聞かれると、答えに困ってしまうような気がします。

毅然と、「あってはならない」と言えるように、当たり前に男女が同じ権利を持てるように、女性だから、マイノリティだからといって「これくらいでいい」と思うことなく、権利を主張し過ごしていきたいと思います。

そのためには、ルースが大事にしていたように、感情的にならず、冷静に伝えていく姿勢が重要なのだと感じました。そして、そこにはきちんとした知識も必要です。

先日、ネットメディアの質問コーナーで「女性活躍、男女平等を推進するために身近にできることは何か」というものがありました。

私はやはり、これは個々人が冷静な知識を備えることだと思います。
そして、ロールモデルを提示することです。

ルース・ベイダー・ギンズバーグが登場する映画は『RBG 最強の85才』というドキュメンタリーも有名です。
まだ観ていないのですが、近いうちに見てみたいと思います。

#映画感想文

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?