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岩波文庫「マゼラン 最初の世界一周航海」レビュー「三度目の「マゼラン」」。

僕が「マゼラン」の名を知ったのは中学の社会科の教師の授業の中であって,
とは言え「最初に世界一周した人」とかの高校受験の暗記項目としてではなくホルストの「死の艦隊」を教室に持ち込んで,教師が感銘を受けた箇所を音読して生徒に聴かせたのであった。
その教師は歴史を「暗記科目」として受け取られる事を嫌い例えば百姓一揆についても「百姓の気持ち」を慮る様指導すると言った風であった。
教師の中に生徒を「自分色に染める」事に執心するタイプがいて彼が正にそうであったのだ。
彼には梅原猛の「塔」も紹介された。
「カレ色に染まる」気など毛頭ないが学びには「きっかけ」が必要なのだ。
彼はその「きっかけ」を与えてくれた意味で感謝してると言いたいのだ。

スペインの港を5隻の艦隊に総勢270名の乗組員を載せて出発した
所謂「マゼラン艦隊」は現在のフィリピン辺りでマゼランが命を落とし,
帰還したのは僅か1隻,生還者は18名だった。
だが彼らが持ち帰った香辛料を始めとする数々の土産は,
その損失を遥かに上回ったという「死の艦隊」記述が強く印象に残った。

二度目の「マゼラン」との出会いは本多勝一氏の「マゼランが来た」。
マゼランは原住民から見れば侵略者・略奪者であって,キリスト教への改宗を強要したキリスト教侵略の尖兵として描かれていた。
「死の艦隊」では人喰い土人同然の原住民に殺された事になっているマゼランが原住民側から見ればマゼランを滅ぼし,侵略者を追い払った部族の長は今でも郷土の誇りであって,現在でも部族の長とマゼランの一騎打ちを演じる寸劇がセブ島周辺の島々の人気の演目となっていると言う。
部族の長役の
「私は異教の神にもスペイン王にも決して頭を下げぬ」
「私が頭を下げるのは我が神と我が国民に対してのみだ!」
との大見得を切る場面には目頭が熱くなる。

三度目の「マゼラン」との出会いが本書となる。
本書はスペイン語で(フェルナン・デ・)マガリャンイス,
英語で言えばマゼランの最初の世界一周航海に同行し,
日々航海日誌を書き続けて生還した
アントニオ・ピガフェッタの手記である。
本書の書名では本邦での知名度を慮って英語の「マゼラン」表記だが
本文では併録されているスペイン王国の次席秘書トランシルヴァーノの
報告書で頻出するスペイン語読みの「マガリャンイス」を採用している。

マガリャンイスは
1.モルッカ諸島での香辛料の発見
2.新航路の開拓
3.現地の神殿の破壊
4.キリスト教の布教
5.スペイン国王への臣下の礼の強要
を目的として旅をしている。

新航路を開拓せねばならん理由は明明白白で
大航海時代においてはポルトガルが先鞭を付けていて
遅れを取ったスペインとしては
「東」回りに航路を取ってモロッカ諸島に行くには
アフリカとインド洋がポルトガルの領域である限り
船隊の派遣は不可能である以上,
「西」回りに船隊を派遣してモロッカ諸島に向かう
新航路の開拓が必須なのだ。

「西」回りの新航路の開拓の前に実質的な地理的障害として
立ちはだかるのがアメリカ大陸であるが
16世紀初めの当時にあって地理学的に,
アメリカ大陸がどの様な形状をして
どの様な位置を占めてるか全く不明の状態にあった。
故に,はじめスペイン王も側近も
マガリャンイスがプレゼンする
全く未知数の西回りの航海計画に消極的だった。

しかしマガリャンイスは
「大陸の高緯度に切れ目がある」
「地続きではない」
「西回りの新航路開拓の要諦となる「海峡」は必ずある」
と主張して譲らなかった。

彼は自説の論拠をマルティン・べハイムの世界図に求めていた様だ。

本書ではピガフェッタが以下の様に証言している。

提督(マガリャンイス)は以前ポルトガルロの王室宝物庫で,
あの卓越した世界誌学者
マルティン・ディ・ボエミア(マルティン・べハイム)が作成した
地図を見た事があり,
それによって非常に狭い海峡を通って航行すべき事を知っていた。

べハイムは現存する最古の地球儀を作った事(1492年)で有名で
その地球儀にはアメリカ大陸が存在しない。
コロンブスの北米大陸発見が
1492年(地球儀製作と同年)なのだから当然である。
また「極東」が「群島」であるというマルコ・ポーロの世界観に基づく
「想像」で描かれ,かのジパングも「群島」に含まれている。

歴史学者(ラテンアメリカ文化史)の増田義郎氏の解説によると
べハイムによるアジアの概念図のアジアの大陸と
セイランと呼ばれる群島のひとつとの間隙を
ピガフェッタが
「(大陸の高緯度の切れ目=)海峡」
と呼んでると指摘されている。
つまり彼もマガリャンイスも「探す海峡」はアジアにあると思ってたのだ。

彼等の世界観に「アメリカ大陸」がないのだから
西へ西へと向かえばマルコ・ポーロが東方見聞録で存在を示唆した
極東の群島に到達する筈で,
その群島を抜けて更に西に進めばアジアの大陸に到達すると考えていて,
べハイムのアジアの概念図に記載された
アジアの大陸にある筈の海峡を抜けたら,
そこは西インド洋だと認識してたのだ。

マガリャンイスは実際には南米大陸と南極大陸との間に発見した海峡を
べハイムのアジアの概念図に記載されたアジアの大陸とセイランと呼ばれる群島のひとつとの間に存在するとされた海峡と誤認したと考えられる。

故にマガリャンイスは海峡を抜けた先に
広がる大洋を「西インド洋」と認識したが,
間もなく自らの認識とべハイムのアジアの概念図の
誤謬を認めない訳にはゆかなくなった。
目の前に広がる大洋が実際に運航してみると
西インド洋など比較にならん程広大だったからである。
彼の眼の前に広がっていた大洋の正体とは「太平洋」だったのである。

マゼランはべハイムの権威に縋り,
自分の東インドにおける経験と知識を強調して
王たちを説得したのではないかと増田氏は推測する。

ともあれ結果としてマガリャンイスは
南米大陸と南極大陸との間に「高緯度の切れ目」=海峡を発見し
この海峡は発見者の名を取って「マゼラン海峡」と呼ばれている。

だから歴史学者達はべハイムを
「彼はマゼラン海峡の発見に貢献した」と評価したくない訳。
マガリャンイスが「マゼラン海峡を発見した」のはたまたまであって,
べハイムは全然「貢献」してないじゃん!
「アメリカ大陸」も知らねえ癖によォォォと言うのが学者達の論拠である。

何だかね…「コロンブスの卵」みたいな話。
「何もしない連中」は
斯くも「偉業」を矮小化しようと躍起になるのである。
「たまたま」とか…椅子に座ってゴタクを並べてるだけのオマエ達に
マゼラン海峡が発見出来んのか?ああ!?

だがね。
「べハイムの世界図」が
マガリャンイスの最初の世界一周航海の原動力であり
スペイン王や側近を説得する際の論拠となってた事は疑い様がないのだよ。
つまり「べハイムの世界図」が無かったら
マゼラン海峡の発見も,世界一周航海の達成も無かったのだ。

さて「マガリャンイスの世界観」の解説が随分長くなってしまったが,
そろそろ「マガリャンイスの旅の目的」の解説に話を戻すとしよう。

キリスト教の布教とは「最も偉大なキリスト教徒」であるスペイン王に臣下の礼を払い,神の恩恵とスペイン王の保護に対して,
「感謝の気持ち」として貢物を差し出す事と同義であって,断れば艦隊からの砲撃が待っており臣下の礼を払った証として高所に金属製の十字架を打ち立てさせ,金属製の十字架が避雷針の役割を果たし,雷が十字架に落ちるのを
「我々の神の恩恵によってオマエ達に雷が落ちなかった」
「オマエ達の「神」にこんな事が出来たか?ああ?」
と教える「布教の実態」が語られて行く。
勿論高所に立っている金属製の十字架が
「スペインの縄張り」の分かり易い目印となってる事は言うまでもない。
基本が恫喝外交故に「艦隊」である絶対の必要があるのである。

こんな…現地の「神」を殺しながらキリスト教への改宗を強要し
スペイン王に貢物を要求するやり方が反発を受けない訳がない。
マガリャンイスはセブ島周辺諸島の諸国の長達の猛反撃を受けて
彼は命を落とし絶対無敵の筈の「マゼラン艦隊」は
這う這うの体(ほうほうのてい)で逃げ出したのもむべなるかなである。

ピガフェッタは毎日航海日誌を記録していて
帰還したのだが,どうも1日「ズレ」がある。
その理由を彼は次の様に説明する。

つまり西へ西へと航海して,元の出発点に帰ってきた場合,
つまりこれは太陽の運行と同じ事をする訳であるが,
我々が24時間だけ先に進んだ事になるのは明白な道理である。

ピガフェッタ等が現在「日付変更線」と呼ばれるものを超えた事が
地球が自転してる事=地動説の正しさを証明し
彼等が世界一周航海を成し遂げた事の証明ともなっているのである。
ガリレオ・ガリレイが地動説を唱え
異端審問にかけられる100年以上前の話である。
ジューヌ・ベルヌの「八十日間世界一周」でも
日付変更線が効果的に用いられている。

「学校の授業など詰まらない」と嘆く若い人は多いだろうが
「学ぶ楽しさ」を教えてくれる教師は数少ないながらいる。
彼は
「歴史を学ぶ事とは年表を暗記する事ではない」
「歴史上の出来事や人物を生き生きと感じ取る事だ」
と教えてくれた。
そういう教師に出会えた僕の僥倖を喜ぶと共に
若い皆さんにもそうした「出会い」がある事を祈念して止まない。


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