「誰だって人生という物語の主人公なんだ」を斜めに解釈。〜「君たちはどう生きるか」を読んで、ふと。
よく聞くフレーズで、
「誰だって、自分の人生という物語の主人公なんだ。」
みたいな話。
僕はわりと肯定派。
だって、本当に人生一度きりだし。
とはいえ、全て自分中心はまずいと思う。
相手への配慮や想像力が欠けた瞬間。
それこそ自分の物語にわりと影響が出る気がする。
そういう瞬間が繰り返されると、自分の物語に出てくる登場人物たちは減っていく。いざという時、助けてくれる人もいない。
なので、僕はできるだけ相手に対して想像力を持ちたい。限界はあれど、頭の片隅に置いていたい。
なんでこんな話をしたかというと、久しぶりに『君たちはどう生きるか』の漫画版(マガジンハウス)を読んだから。戦前に吉野源三郎さんが書いた児童文学を漫画家の羽賀翔一さんが現代に復活させた漫画だ。
好きなシーンはいくつかあるけど、
主人公(コペル君)と叔父さんが銀座のビルの上から街を見ろすシーンでこんなやりとりがある。
コペル:全てのものは小さな分子の集合体だというけど、人間一人ひとりもこの社会を構成する小さな分子みたいだ。
それを聞いた叔父さんは「その発想はコペルニクスみたいだ」と言ってこう続ける。
叔父さん:人は自分を中心に考える癖がある。昔の人は自分がいる地球を中心に天体が回っていると思っていた。しかし、コペルニクスは、宇宙を俯瞰的に見ることで初めて地球が太陽の周りを回っていることを発見した。自分中心から全体を俯瞰的に見る眼を持つことを「コペルニクス的転回」と言うんだ。
自分の間合いをグッと広げて、鳥になって、星になって。
「自分の悩みなんてちっぽけなんだ!」みたいな着地もあるけど、ここでは自分の半径〇〇メートルなノリで考える。
自分の物語には必ず他者が関わっているから、小さな「コペルニクス的転回」を持ちたい。
この人生の物語の主人公は自分ではあるんだけど、それを構成する世界はいろんな他者が交わっている。
自分の物語を面白くするなら、他者とベタベタする必要はないけど、他者への想像力と配慮(コペルニクス的転回)を持ちたい。
これ、死ぬ瞬間までむずかしいことですが。
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