健康情報は知識マウントの道具なの?

コロナ禍になってからというもの、それまで以上に健康情報が巷に飛び交うようになってきたことを感じます。私は以前より健康に関心があり、というより「囚われて」、生きてきたので、必要以上にいろんな情報を集めては、自分で試してきたように思います。コロナ禍になってみて、私の「健康」への捉え方も少しずつ変化してきており、「健康至上主義(全体主義)」へのアンチテーゼのような思想も出てきました。健康的に生きない自由もあると思うし、みんながみんな身体に気を遣った生活をする必要もないと思っています。

そう思うに至ったのもいろんな理由があるのですが、「何が健康に良いかということは、本当によくわからない」という暫定的な結論に至ったというのが大きな理由の一つとしてあります。そもそもの「健康」の定義も不明です。病気や不調になる原因というのは無数にあり、一見不調に見えるものが根本的な体調を整えるためには必要な作用であったりするし、症状を止めることが良いこととは限らないということもありますし、薬を飲んで症状は止まっていても、身体の免疫・恒常性はすでに狂っていて、大病が潜んでいるということもあります。私はよくお腹を壊すのですが(いつもひーひー言ってる)、それも私の免疫・恒常性がしっかり働いている証拠なのかもしれないですし、そうすることで何らかのバランスをとっている可能性が高いです。

「健康」というのは、老若男女誰にとっても無関係ではないことで、ビジネスになりやすいですし、「○○が良い」と言えば誰か買ってくれる人はいるわけで、様々な思惑がまとわりついた情報が多いと言えると思います。あらゆる健康法が世に出ては消えたり、一部は残ったりしている中で、絶対的に万能な情報はないからこそ人々は迷い、憂い、落胆し、時にぬか喜びし、ということを繰り返しているんですよね。そもそもの原因が無数にあるので、健康法も無数にあるとは思うのですが、ある人には抜群に効果があったものが、ある人には逆効果と言うこともありうるので、本当にその人の体質やその時の状況次第ということになります。

そうは言いつつ、人間の基本的なメカニズムみたいなものはあると思っているので、私はそういった根本的な仕組みみたいなものにはとても興味があります。その意味でもまだわかっていないことだらけで、現在知られている人体や健康に関する知識というのは本当に断片的、表面的なものに過ぎないのではないかという思いもあります。やはり思惑が絡む分野なので、支配層による誤った情報の洗脳が行われやすい領域でもありますし、現行のアカデミズムに反するような説や論文(研究者)は闇に葬り去られるのが常です。ということは、支配層にとって都合の良い情報しか一般的には広まらないのではないかという疑念もわいてきます(実際そうだと思います)。

そういったことを踏まえると、健康に関する情報を発信するということは、正確性という意味で困難で、かなり責任を伴うものだと認識せざるを得ません。素人だろうが「専門家」だろうが関係なく、発信側はある種の謙虚さが必要だと思いますし、受け取る側も情報や人を絶対視することなく、間違っている可能性があることを認識しながら試していく以外にないと思います。根本的なことを言えば、「健康」すら定義できないのだから、何が正しくて何が間違っているのかすら言えないとも言えますが、暫定的には「免疫・恒常性を高める」というのが「健康」の定義に近いのかなとは思っています。

これは私がいつも自戒していることですが、健康情報というのはとかく知識マウントになりやすく、「そんなことも知らないの、気をつけてないの、それなら治るわけないよ」というようなことになりがちです。同じようなことは「少し先に気づいただけ」という意識 という記事にも書きました。より良い情報を提供しようとしているのか、マウントを取りたいのか…。そもそも、人に勧めるという行為自体が難しいことで、「〇〇、自分で試して△△が解消されたよ」という体験談レベルでしか語れないものだとも思っています。自分にとって良いものが他人にとっても良いかはわからないし、間違っている可能性もあるから、あまり上から語るのもどうかなと我を顧みつつ、健康情報の発信や受け取りの難しさについて、最近思っていたことを書いてみました。

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