厄介な「情」と「マウント心」

ここ1~2か月くらいの間、私と母親との間にちょっとした小競り合いが発生していました。それによる気づきもあったので少し書いてみたいと思います。ここのところ、母に慢性的なある症状があり、近所のクリニックにたびたび通っていました。私は自然療法について学んでいたことがあったので、「その症状には〇〇が良いとされているよ。私も同じ症状になった時に飲んだことあるよ。」というようなことを軽く言ってみたことがあったんですね。すると「そんな○○なんかで治るわけないじゃん。」と馬鹿にしたように一蹴されてしまい、私の話をそれ以降まったく聞くこともなく、軽くあしらわれて終わりました。私はただただ腹立たしい思いをして、それ以上何も言いませんでした。

なんというか、本当に自分はバカだと思い、「なんで余計なことを教えてしまったんだろう。過去に何度も同じことを繰り返しているのに。私の言うことなんか聞かないんだから、放っておけばいいんだ。もう何も言うまい。」と反省しました。「放っておく」ことができない人々 という記事を自分で書いていたのにもかかわらず、まーた同じことをやってしまった!と思い、助けたいという情と知識マウントの罠はなかなか消えない大きいものだなと実感しました。私は別に私の言うことを鵜呑みにしてほしいとは思っていませんが、「え、そうなの?」と言ってググってみるくらいはしてほしかったです。知る人ぞ知る的なことではなく、たくさん情報が出ている話なので。

そして、さらに追い打ちをかけるような出来事が。ある時母が私に気まずそうに言ってきたことがありました。「この間病院行ったら、遥が言ってた〇〇を勧められた。」そして、試してみるとのこと。私はさすがにちょっとキレてしまい、「私もそれ今持ってるけど、絶対にあげない。(プイッ)」とむくれていました。もう知るかと思いました。ばかばかしくてやってられません。医者にも同じように「そんな○○なんかで治るわけないじゃん。」と言ってみてほしかったです。

とはいえ、こういうことって世の中的にはよくあることで、家族が言っても無視するけれど、「先生」の言うことは信じるという人は大勢います。政府、マスコミ、「先生」信者、一般大衆はだいたいそうですね。今回のトラブルは、少し先に気づいた人が親しい人に対して陥りがちな典型的な葛藤事例だったと思います。こうやって書いてみると、別にそんなキレることでもないじゃん、と思うのですが、過去の蓄積があるので、つい感情が動いてしまいました。

上にちらっと書きましたが、結局のところ、私の中にある「情」と「マウント(取りたい)心」が余計な一言を生んでしまったと思っています。母は私の言うことに耳を傾けない人間であることは、これまでの経験からはっきりわかっていたにもかかわらず、「症状が楽になればいい」というような情や優しさが発生し、余計な忠告に発展してしまいました。また、日ごろから親に馬鹿にされて育ってきたため、頃合いを見計らって知識マウントを取りたい気持ちが潜在的にあるように思います。これもまた厄介で、余計なことを言ってしまいがちになります。

自分の話に聞く耳を持たない人間に対して、何かを忠告したりすることは無意味であるし、今回のようにかえって攻撃されたりして自分が嫌な思いをすることが多いです。また、親は子どもに対して優位性を保ちたがるものなので、子どもの言うことなんか聞かない、という態度が一般的かもしれません。そうやって育った子どもはマウントの罠に陥りやすくなり、それがずっと連鎖していきます。昨今のワクチン騒動等で、意見の対立が起きている家庭も少なくないと思いまが、そこでのトラブルには必ずと言っていいほど、「情」と「マウント心」が隠れているはずです。皆さんがどう思われるかはさておき、私自身は日々気づきを重ねつつ、この「情」と「マウント心」をうまく飼いならして、毎日を心穏やかに過ごしていけたらいいなと思っています。

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