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ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑰

前回からの続き


人間にとっての雑談は猿にとっての毛づくろいと同じようなものだと聞いたことがある。
毛づくろいと聞くと、清潔を保つことが目的のように思えるけれど、猿たちがそれを行う一番の目的は、相手への信頼や信愛を表すことにあるらしい。
だから、とくに汚れていなくても、毛づくろいは行われる。
当時の私を仮に猿に例えるなら、毛づくろいをするのも、されるのも怖がって、なるべくお互いの手がギリギリ届かないくらいの距離で様子を見ている猿だったのかもしれない。
毛づくろいしないといけない、されないといけない場面になったら、汚くてもかまわないから相手の毛か自分の毛に汚れが付いていてほしいとすら願った。
毛づくろいする必然性ないし正当性のようなものが欲しかった。

他者からの評価を恐れるあまり、言葉が出てこない。
もっと気楽に話せたなら、と思った。
でも、できない。
自分が傷ついてしまうのが怖かった。

たとえ傷ついても、大丈夫だと思えるほど確固たる自分なんてものはなくて、なにかあったら自分という存在が足元から崩れてしまうのではという心細さが常にあった。
だから、余計なことは言わず、その場で求められることだけを話した。
つまりは、仮面をかぶって与えられた役割を演じるだけ。
そうすれば、傷つかずにすむ。

ただ、そうしていると誰かと一緒にいるときの自分がとても薄っぺらいものに感じられた。

また、役を演じるといってもそれはかなりのエネルギーを必要とした。
人と話したりしているときの自分はその場に適応しようと必死だった。
それはまるで、下り坂を走っているみたいな感覚で、自分の意思で止めたりコントロールできたりするようなものではなく、倒れないために必死に前に足を出しつづけるしかなかった。

1日の予定を終えて、部屋に戻ると先ほどまで誰かと一緒にいた自分と、今ここに1人でいる自分とのギャップに戸惑った。
1人のときの自分から見れば、誰かと一緒にいる自分はいつも緊張していて、自信なさげだった。
もう少しリラックスしてもよいのにと、声をかけたくもなるのだけれど、いざ外に出て誰かに会った瞬間、1人だけのときの自分の声は、目覚めた途端に忘れる夢みたいにかき消えた。

誰かと一緒にいる自分と1人のときの自分のはざまで疲れたりしんどくなったりしたときは、よく本を読んだり、詩を書いたりした。
誰もいない部屋で少し休憩するみたいに。

でもその誰もいない部屋に長居してはいけないと思っていた。
そのような休憩の仕方が健全かどうかわからずにいた。
どこか内向的な自分を否定的に捉えていたかもしれない。

ひきこもっていた13年間、自分の内側にこもって過ごした。
そして、自分自身に窒息しそうになって初めて外に出た。
だから、一時的であれ、自分の内にこもることに抵抗感や、引け目のようなものを感じていたように思う。

生きる価値ってなんだろう。
それはどこにあるのだろう。
自分の内にあるのか、他者との関係性の中にあるのか。
外に出て人と関わるようになったばかりの自分はそのどちらにも踏み込みきれないでいた。
1人でいることにも誰かと一緒にいることにも自信が持てずにいた。

ひきこもっていた頃の自分にとっては、誰もいない、私すらいない、そんな世界が理想だった。
苦しみをやり過ごすために、その苦しみを感じる自分という存在をいかになくせるかを追求していた。
そこにはどこか求道者的な情熱もあって、少し変な言い方になるけれど、今の自分よりもよっぽど生きることに真剣だったようにも思える。
目指していた方向が正しいか否かは別として、少なくとも目指す方向は明確だった。
そして、そのような生活の中で見つけた言葉を大事に拾いあげて、なくさないようにぎゅっと握りしめていた。
言葉だけが私を支える全てだった。

ただ、その自分が大事にしている言葉が果たして本当にこの世に存在しているのかは、私以外の誰かがいないとわからない。
13年間ひきこもって、そのことに気が付いた。
言葉は人と人の間でのみ呼吸して初めて生きた存在になるものだった。
自分の中だけでは言葉は窒息して死んでしまう、自分の中にある言葉が死んでしまうことは、自分が死んでしまうことと同義だったから私は外に出たのだった。

他者がいないと自分の言葉は生きられない、しかし、他者との関わりの中で発せられる自分の言葉は薄っぺらなものに感じられる。

生きる価値は水の中の魚みたいに掴もうとすればするほど手からすり抜けていった。

1人でいることと、他者と共にいることをどう両立させるのか。
それが一番の課題だった。

当時の私は、自転車に初めてのる子どもみたいに、1人でいる自分と、誰かと一緒にいるときの自分という二つの車輪の扱いに苦戦していたのだと思う。

夜になると落ち着くためによくお茶を飲んでいた。
今日もあまり人とうまく話せなかったなと少し落ち込むことが多かったから。
でも夜は辛いだけではなかった。
同じ階に住んでいた10歳年下のA君がよく部屋を訪れてくれた。
自分の部屋ということもあるのだろうけれど、彼といるときは不思議とリラックスできていた。
彼と私は同じ時期に通信制の高校に入学したり、一緒に宮崎市が行っていた学習支援を利用したり、部屋が同じ階にあったりと共通点が多く、自然と仲良くなった。
当時の私の部屋に一番多く訪れてきたのは彼だった。

彼とは、パソコンで動画をみたり、お茶をのんだり、私の部屋にあったギターでふざけて即興で歌を作ったりして過ごした。
悩みや、愚痴もこぼしあった。

同じ学生同士、同じ階の住人、といった上下のない関係であるからなのか、緊張せずに話すことができていたように思う。
彼はよくおちゃらけて私を笑わせてくれた。
そんな彼に対する私の返答も自然とくだけた、外から見たら中身のない、くだらないものだったと思う。

自分は一緒にすごす人間としてはあまりおもしろくない部類だろうな、と思っていたのだけれど、彼は何度も私の部屋のドアをノックしてくれた。

くだらないことを言い合える関係、それは外から見たときはどこか軽薄なものに見えていたけれど、そうではなく、評価を気にせずに過ごせる安心できる関係だと気づいた。

評価しない、評価されないという関係性や、場が新鮮だったし、そのような関係性に自分があまりにも慣れていないことにも気が付いた。
今までは、親と子、先生と生徒といった上下の関係性や、社会とひきこもりといった、内と外の関係性という緊張を伴うパターンのなかで生きていたから、それ以外の関係性は貴重なものだった。

私は、他者とは私に評価を下す存在と捉えていた。

他者と関わるということは、加点ではなく、減点項目だけが書かれたシートとペンを手にした相手と相対するということだった。
相手がそのシートに何かを書き込むことが怖くてしかたなかった。

たぶん私は、社会の中において自分のことを欠陥品のように感じていたのかもしれない。
ベルトコンベアに流れる商品のうち、自分は検品の段階ではじかれてしまう規格外のもの。
だから、私にとって他者の目は、検品作業する人の目に感じられてしまうのだろう。

たぶんそれは私にかけられた呪いみたいなものなのだと思う。
思考の癖と言った方わかりやすいだろうか。
その呪いを解かない限り、私は他者を通して私自身に減点のチェックを入れ続けて、1人でいても、他者といても不安を持ち続けることになる。

もっとくだらない自分を出せる場があったなら。
もっとくだらないことを言える自分になれたなら。
他者と自分自身に持たせたシートとペンを捨てさせることができたなら。

それはゆるされることなのだろうか。
そんな場が外にあるのだろうか。
そんな場を私はみつけられるのだろうか。
そんなことを考えると自分の部屋で不安になることもあった。

そんなとき、A君にはいつも助けられていた。
A君はいつも、でたらめにギターをひいて、突拍子もない歌をうたう。
その予測不可能な歌詞の展開や、リズムに私は思わず声を出して笑ってしまうのだった。
自分ってこんな風に笑うんだと新鮮に思うくらいに。

4年弱の宮崎生活では、とりあえず、手当たり次第に人と関わって、そのつど人に慣れていない自分に葛藤して、いろんな人にサポートしてもらって、日々のタスクをこなしていった。
そして、高校卒業に必要な単位を取得して、指定校推薦での大学入学も決まった。
とにかく息つく暇もなく、がむしゃらに動きつづけた日々だった。

朝、スマートホンで「ネクタイの結び方」と検索する。
見よう見まねで結んでみる。
何度か長さを調整するためにやりなおす。
ジャケットを羽織って、カバンと部屋の鍵を手に部屋を出る。
履きなれない革靴の感触に慣れないまま建物の外に出る。

空は雲に覆われている。
雨は降るのだろうか。

車寄せにアイドリングしている乗用車を見つける。
ボンネットには若葉マークがついている。
運転席にはジャケットを着たA君。
車に歩み寄って、後部座席のドアを開けて、彼と助手席にいる彼のお母さんに挨拶をする。
座席に乗りこむと、バックミラー越しに少し緊張してハンドルをにぎる彼の表情がみえる。

車を出した後、運転のアドバイスをするお母さんと、「わかってるよ」と少し反抗的に返事をする彼のやり取りに、自然と頬がゆるんだ。
私は私で、これから臨む初めての卒業式というものに緊張していたのだった。

緊張しなくなることなんてあるのかな、とふと思う。

鹿児島から出てきたときも曇りの朝で、私は両親が運転する車の後部座席に座って、窓の外を見ていた。
あれから4年弱が経った。
そしてこれからの4年間は上京して大学生として過ごすことになる。
自分がどうなっていくのか想像がつかない。
宮崎では目の前のことで精いっぱいだった。

実家から出て、何かを成し遂げたような感覚はなにもない。
むしろ課題がたくさん増えた気すらする。

何かを得たというのなら、それはたくさんの人と出会えたという事実や記憶だろうか。

窓の外を見る。
いつもどこか緊張しながら自転車のペダルを漕いでいた通学路が流れていく。
目に映る景色がなんだかすでに懐かしく、名残惜しくも思えた。

学校が見えてくる。
校門の隣には卒業式と書かれた看板。
車はゆっくりと学校の敷地内へと滑り込んでいく。
少し姿勢を正す。
ふと足元を見る。
まだ足になじまない新しい革靴の感触がすこし気になった。

ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑰
                                
おわり

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