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ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑦

2022年4月1日から18歳が成人年齢となった。
18歳になったら、1人で携帯電話の契約ができたり、クレジットカードがつくれたり、1人暮らしの部屋が借りられたり、パスポートも取得できたりするようになったとのこと。

ひきこもっていた18歳当時の自分には携帯電話もクレジットカードも一人暮らしの部屋もパスポートもほとんどファンタジーの領域に存在するものだったなと、振り返って思う。

私が2007年に18歳になったとき、できるようになったことと言えば散歩だった。
たかが散歩である。
けれど、当時の自分にとっては大切な散歩だった。
貴重な時間だった。
誰もいない夜の海をずっと歩いた。

18歳と言えば、大体の人が高校を卒業して、大学に進学したり、就職したりする年齢で、学生であることが絶対ではなくなる年齢だった。

学生は学校に行かなければならない、そんな呪縛が少しゆるんだ。
自分の中で響いていた「学生(学生にあたる年齢の人)が、なんでこんな時間に、こんなところ(学校以外のところ)にいるのか」と責める声が小さくなった。

それまでは、どこにいても「どうしてそこにいるのか」と責められている気がして、隠れなければという意識が先にたった。

でもやはり、同じ部屋にいることに息がつまり、水面から顔を出すみたいに散歩に出かけるようになった。
学生は学校にという足かせが外れて、自然と水面に浮かび上がったのかもしれない。
高校はもとより、中学校も1日も通うことなく、私は18歳という年齢ををむかえていた。

それまでは、ひきこもりであること、その状況が変わる予兆が微塵もないこと、現状を変えられるなんて思うことも叶わない無力感、そんな日々が癌細胞のように増えていくこと、ある意味で、そのような状況を含めて、父と母と私の家庭が安定を保っていることの閉塞感で窒息しそうだった。

当時、唯一といえる人間関係である両親とも会話はなかった。
私の方から口を閉ざし、扉を閉めた。
両親は私のことを心配してくれていた。
そのことはわかっていた。
不登校やひきこもりについて彼らが勉強していたことも知っている。
2人は私が不登校になって、ひきこもるようになってからも私を否定するような言葉を言ったことがない。
そのおかげで今の両親との関係や私があると感じている。
衝突することもケンカもなかった。

ただ、それでも当時の私は両親にたいして、常に苛立ちを覚えていた。
親や、家だけが唯一私と接点をもった環境であったから、状況が変わらないことを環境のせいにしたかった。
環境の方に変わってほしいと願っていた。
自分は変わりようがないと思いこんでいたし、そもそもどのように変われば良いのかもわからなくなっていた。
両親は少なくとも私よりは自由なのだから、この状況を変えられる可能性をもっているじゃないかと、その自由さに嫉妬し、その自由をいかさないことを恨みもした。

自分はこんなに苦しんでいるのに、私をこの世に生み出した彼らは何もアクションを起こすことなく過ごしている。
決まった時間に、母が見る連続テレビの主題歌が流れてきたり、父が週末に見るテレビのゴルフ中継の音がきこえてくると無性にイライラしていた。
変わることなく繰り返される日々の営みが忌々しく感じられてしかたがなかった。

両親はとても理解があって良い親であったと思う。
良い親であるからこそ、彼らに苛立ちや怒りをぶつけることができず、欝々とした気持ちを私はため込んだ。
私は口をつぐみながら、苛立ちで握った拳を自分の体に振り下ろした。
自分の部屋で1人。
当然だけれど、自分の体を殴ったところで、状況は何一つ揺るがなかった。
自分のなかで行き場をなくした苛立ちや怒りに皮膚をしずかに焼かれるようだった。

ひきこもっているという自分の立場、養ってもらっているという立場であったから、何も言えなかった。
出ていけと言われたら、終わりという危機感もあった。
そのため、怒鳴ることも、モノにあたることもできずに、私は何重にも口を閉ざした。

また、当然ながらその家は両親のものであって私のものではなかった。
私がなにかを選べる余地はなかった、口を挟む余地もなかった。
そこにあるのは両親が選んだ物たちだった。
例えば、何かを買ったり、家具や衣服を選ぶなんて私にはできなかった。

目に見えるようなかたちでの自己選択、自己実現なんて何もなかった。

だから、私は詩や散文を書き、絵を描いた。
そこにだけ私があった。
それらがなくなったら、数年間の私も私の苦しみもないに等しいものだった。

けれど、それだけでは、自己実現したい欲求を処理することはできなかった。
変わらない環境、自分が入りこむ余地のない両親という他者によって満たされている空間に、圧迫されていった。

そして18歳になったとき、呼吸できる場所を探すように散歩にでかけた。

私の実家から歩いて10分程度のところに、大きな公園があった。
そして、その公園に面するように伸びる松の防風林を抜けると海が広がっていた。
公園までの道も畑に囲まれていて、車も乗用車と同じ程度に軽トラックやトラクターが走っているような田舎の道だった。

田舎だったから、夜になるとほとんど人や車の行き来はなくなり、街灯も少ないから人の目につくことはほとんどなかった。
それでも、家から道路に1歩踏み出すと、心拍数が上がった。
誰かと会ってしまったらどうしよう。
たまに遠くに車のヘッドライトが見えると、おおげさなくらいに慌ててあぜ道に逃げ込んだ。
まるで脱走した囚人のような気分だった。

かすかな街の光も届かない松の防風林のなかに足を踏み入れると、そこに響くのはくぐもった波の音と自分の靴が落ち葉や枯れ枝を踏む音、そして時おり聞こえる動物か風に木々の枝葉がゆれる音だけだった。

そして、防風林をぬけると、視界が開けて、それまでくぐもっていた波の音がクリアな輪郭を持って広い空間に響いていた。

そこは夢のような空間だった。
それはファンタジーのように軽やかで素敵なという意味ではなく、自分しか見る者がいないという意味合いで夢のような場所であった。

誰もいない海は現実から、自分の日常から離れたところにある場所だった。
そこでは、ひさしぶりに息をつくことができた。
それからは、夜12時過ぎになると自分の部屋をあとにして海にでかけるようになった。

夏は虫や蝙蝠、そしてなにより人の出現率があがるために、散歩にいきづらくて窓辺で網戸越しの風を浴びてやり過ごすこともあったけれど。

冬はほぼ毎日散歩に出かけた。
大体、1回の散歩に3時間くらいかけた。
本当はもっと長く海にいたかったのだが、寒さで冷え切った足の痛みでしかたなく家路についた。

その散歩で出会った風景はそのときの自分にとって(あるいは今の自分にとっても)、大切なものになった。

月明かりが照らす子どものころ遊んだ公園の遊具、空っぽのプール。
防風林の梢からこぼれる月のひかりでできた溜まり、海面にできた月の光の道。
いくらでも見つめていられると思った。

歩くようになったこと、家や、家にいる自分にまつわる苦しみから一時的ではあるけれど距離をとれるようになったことで、鬱のような状態からは抜け出ることができていったように思う。
家にいるときとは別の思考ができることが、なにより大きかった。

そんなある日、いつものように海へでかけた。
そして、歩き疲れると、砂浜に体育座りのかっこうで腰かけた。
自分の膝を抱きながら、膝の上に顎をのせて目を閉じていたらいつの間にか寝てしまっていた。
寝ていたのはほんの数分だったようには思うのだが、正確にはわからない。
その日は星も月も出ていなかったから、それらの動いた距離で時間を測ることができなかった。

ただ、ふいに目をさましたとき、自分がもう2度と蓋を開けられることのない箱の中で目をさましてしまったような感覚があった。
間違った場所で目をさましてしまった。
そう思った。
自分は閉じられた箱のなかにいる。

でもそれは、間違いでもなんでもなかった。
それは現実だった。

ああ、そうか私は棺桶のなかで目をさましたのと同じなんだ。

出口はどこにもない。
自分はひきこもりで、その状況を変える術は何もない。

箱は閉じられていて、自分の声は誰にも届かないし、箱の中の酸素は呼吸するたびにうすくなっていく。

散歩に出かけられるようになって、訪れたほんのわずかな安らぎも束の間で、自分をとりまく状況が限界を迎えていることをうすうす実感するようになっていった。

自殺するのかしないのか、生きるのか死ぬのかの決断をもう先延ばしにできないところまで自分はきているのだ。

現実や社会から距離をとって、なるべく遠ざかろうと試みてきたけれど、ここが果てなのだと思えるところに自分は立っていた。

「このまま1歩踏み出すのか、それとも来た方をふりかえりそちらへ向かうのかの決断をしなければならない」そう思った。

それは散歩ができるようになってから5年後の23歳頃のことだった。



ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑦

終わり


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