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ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑮

いつも自転車で走っていた通学路。

いつも少し緊張してペダルを漕いでいた通学路。

今はちょうど10歳年下の友人が運転する車の後部座席に座りながら進んでいく。
免許取りたての彼の隣には彼のお母さんが座っていて、いろいろと運転のアドバイスをしている。
いつもおちゃらけている彼が緊張しているのがなんだかおかしくて自分の緊張が少し緩んだ。

みんな少しずつ大人になっていく。
私はどうだろう。
出かける前、鏡で確認したネクタイの結び目に手をやる。
彼と私はジャケットを着ている。
見慣れない光景ばかりだ。

その日は通信制高校の卒業式。

私にとっては生まれて初めて出席する卒業式だった。

今回は実家から出て、宮崎で過ごした4年間について書けたらと思う。

13年のひきこもり生活から外に出て人と関わるようになると、そこには一つの流れができた。

ひきこもりの経験が活かせる福祉の道を目指す。

具体的には社会福祉士の資格をとるために大学へ行く。
そんな目標を立てた。

その動機は、誰かの力になりたいというもの、ではなく、歩き出すために目的地を仮に設定したという方が近かったと思う。
自分になにができるのかもわからないのだから、誰かのためになんて遥か遠くの地平の話だった。
また、進む方向性を決める材料が、自分のひきこもりの経験ぐらいしか見当たらなかったというのもある。
とりあえず歩き出すために大まかに方向性を定めたのだった。

方向性が決定したら、歩き出してしまったら、流れはおのずとうまれていった。
ありがたいことに、まわりの人の協力もたくさん得ることができた。

鹿児島にある実家から宮崎の施設に引っ越しをしてから3~4カ月後に施設のソーシャルワーカーさんの提案もあり、通信制の高校に通うことになった。
小学5年生以降、誰かに勉強を教わる機会なんてなかったから、自分にできるのか不安は大きかった。
それでも、私の担当のワーカーさんも、面接にいった際の学校の先生(3年間担任になってくれた先生)も「大丈夫」と後押ししてくれた。

平日はデイケアを利用して人との関わりや、外での生活に自分を慣らしつつ、週末は住んでいるところから自転車で20分かからないところにある学校にスクーリングに行く。
1年次の頃はおおよそこのようなスケジュールだった。

その後、学校の先生のつてで、宮崎市が行っていた学習支援を受けられることになり、週3日ほどのペースで県庁近くのビルに通った。
また、学習支援の先生がボランティアで行う塾のようなところにも週1回ほど通うようになった。
心配だった勉強も何とかこなすことができた。
とはいっても、確実に進学するために、受験する大学は、福祉系の大学で受験科目が3つのところに絞った。
さらに2年次にあがったころから、大学受験対策のために高校生向けの塾にも月6日程度通った。

3年次の後半は数か月と短くはあったけれど、同じ施設の利用者が就職した放課後等デイサービスを提供する事業所に有償ボランティアとしてお手伝いをさせてもらったりもした。

上述したように、状況が変わるスピードは、自室にひきこもっていた頃と大違いだった。
芋づる式に人や場所とつながっていくものだから、私はその流れにのっかるので必死だった。

それに加えて13年のひきこもり期間で生じた経験不足を埋めようとして、参加できるものはとりあえず参加することにしていた。
例えば、学校の体育祭などはもちろん、保護者説明会にも参加した。
成人している学生は自分で参加することができたからだ。
ホテルでランチを食べながらの説明会。
自分以外は父母の方々。
少し場違いな状況にもわざわざ向かっていく当時の自分は、今の自分では少し考えられないくらいの行動力だったなと思う。
慣れない場に緊張して、隣の席の人のパンを食べてしまい、赤面したのが良い思い出でになっている。(というのは少し嘘で、今もまだ思い出すと少し顔が熱くなる)

どうすれば良いのか、どうすれば状況が良くなるのか、そもそも良くなるとはどういうことなのか、誰にとって良くなることなのか、そういったことがわからずに、なにも決められなかったひきもりであった頃とくらべて、物事の変化は大きく、まわりの景色は簡単に変化していった。

当たり前かもしれないけれど、ひきこもっていた頃とは比べようもないくらいのスピードで状況は変わった。

社会復帰すること、学校に行くこと、資格をとること、そしてゆくゆくは働くようになること。
それらは私を応援してくれるまわりの人にとって、わかりやすく良いことであったのだろう。
それが前進するということ、成長するということ、そのような価値観があった。
そのような価値観に沿えば物事はスムーズすぎると思えるほど簡単に進んでいった。

ひきこもりから脱して、社会復帰し、その経験をいかして、社会貢献をする。
それは社会が期待する、よくあるストーリーだった。
ある意味、お膳立てされたストーリー。
それはかつては疑念を抱いていたはずのものだった。
しかし自分自身その用意されたようなストーリーに乗っかった。

そのストーリーの中で私は、自ら進んで模範的な社会復帰を目指す元ひきこもりを演じていたと思う。
自分の役柄が明確であること、それが多くの人にとって望ましいとされるものであることは、ある意味、私や私に関わる人の間に余計な摩擦が生まれるのを防いでくれた。

当時の私は、自分がひきこもりであったことを隠すことはなかった。
それは当時、私のまわりにいる人たちが、施設であれ、通信制の学校であれ、それぞれの事情を抱えている人たちや、理解をしめす人たちであったからというのも大きいだろう。

「すごいね」「外に出られてよかったね」「全然そんなふうには見えない」
私のことを知った人はそんなことを良く口にした。

なんといえば良いのかわからずとりあえず「そんなことないですよ」とか「ありがとうございます」といった返事をしていた。

そのような人たちの優しさに感謝しながらも、彼らの言葉の裏側にはひきこもりに対するネガティブな価値観があることに複雑な気持ちになった。
彼らの言葉は(ひきこもりだったのに)というかっこ付きだった。
でも、そこに引っかかっていたらまた進めなくなるような気がして、深くは考えないようにした。

施設でも学校でも、たくさんの人が話しかけてくれた。
友人もできた。
まわりからみたら、すごく順調に物事が進んでいて、問題ないように見えたと思う。

それでもふと、「これでよかったのだっけ」とそんな考えが浮かんだ。

今の自分は社会に適応しようと必死だけれど、いつもどこか緊張していて、落ち着かない。
高校を出て、大学に行って、資格を取って働き出したら、自分のなかのモヤモヤは解消されるのだろうか。
何か見つかるのだろうか。
私は変わるのだろうか。

スクーリングで授業と授業の間に時間が開いたら、学校の近くにあった宮崎神宮を散歩して時間をつぶした。
塾へ行くときはいつも、途中にある小さな神社の石段に座って、銀杏の木を眺めた。
デイケアが始まるまでの時間や、用事が控えている前は、近くの公園のベンチに本を持って腰かけた。
そんなふうにして、1人になる時間を見つけては、深呼吸した。

なんだか自分だけ息継ぎがうまくできずに、潜水しているみたいだなと思った。

それでも、ある意味ひきこもりきって、底付きというか、一つに果てに触れた経験があったから、やれることをやってみるしかない、進める道があるならそちらに行くしかないと思った。
薄暗い実家の自室で、自分の言葉がただの石ころみたいに感じられたあの恐怖がまだ残っていた。

とりあえず今は、やれることをやるしかない、人と関わってみるしかない。
何度もそう自分に言い聞かせた。

深呼吸する。
ベンチから立ち上がる。
また重たい水のなかに潜る。
誰に対するポーズなのか。
全然苦しくないですよ、みたいな顔をしながら。

ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑮
終わり


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