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ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑧

24歳になった自分の服のサイズを私は知らなかった。
外に出ると決めて、実家の鹿児島から宮崎へと移る際に、数本のズボンとシャツを両親が用意してくれた。
自分が部屋から持っていくものは本と、CDとラジカセぐらいだった。
財布は父のおさがりだった。
財布を持つなんて小学生以来だった。

連絡用にとガラケイの携帯電話を渡された。
それが初めての携帯だった。
連絡する相手なんて誰もいたかったし、インターネットを利用するときはパソコンでことたりていたから。

父と母と私の3人で車に乗りこみ、宮崎へと向かった。

車に乗りこむ前に外から自分の部屋を見た。
カーテンがかかっていて中は見えない。
その中に自分がいないということがうまく飲み込めなかった。

車が走り出し、家が遠ざかっていく。

頭には手放された風船のイメージが浮かんだ。
風船を無くしてしまった人のせつなさと、重力とは逆の方向に進んで行く風船の軽やかさ、それに風船の行方のわからなさに伴う不安がないまぜになったような気持ちだった。

今回は外に出るまでの経緯をあらためて振り返ってみたい。
↓の①や⑦では書ききれなかったことを補足できたらと思う。


13年間ひきこもった。
11歳の時から24歳まで。
22歳になったときから、自分の人生の半分以上がひきこもりとして過ごした期間になった。
そのことのやるせなさ、現状の息苦しさ、将来への展望がまったく見えない絶望感に途方にくれていた。
どこかにいきたかった。
けれど、どこにもいけなかった。

当時、停滞する状況のなかで、自殺だけが方位をしめしてくれる唯一のものだった。
私はそれを御守りみたいに手のひらに握りしめていた。
13年間ずっと。

それでも心の片隅でどこかで自分をあきらめきれない気持ちもあった。
その気持ちは他人はもちろん、自分の目にも映らないような場所に隠してあった。
それは叶わぬ願いだったから。

ただ時が経つにつれて、前回にも書いたみたいに自分を取り囲む状況に耐えきれなくなり、自殺するのかしないのかを突き付けられる場面にまで自分は追いつめられていた。

すがるように大事にしていた御守りの袋を開けるとそこには何もなかった。
空っぽだった。

自分には何もなくなってしまった。
手のひらには何も残っていなかった。
自分自身が空っぽの袋になってしまったような気がした。
自死という選択肢がなくなり、生きていく上で、自分を守ってくれるものが何一つ見当たらなかった。

それまではある意味では苦しみが自分の価値であったのだと思う。
苦しんでいる自分に意味を見出していたような部分もあったのだ。
他の多くの人とは違い、たった1人でいる自分。
そのたった1人の自分が抱えている苦しみは、ある種かけがえのないものでもあるのだと感じていた。
苦しみがあるところにユニークな自分がある。
その苦しみを手放すことは自分を手放すことと同義のように思えた。

苦しさから、私は文章を書き、絵を書いた。
とりわけ、つづった言葉は自分に、自分の苦しみや人生に意味や価値をあたえてくれる唯一のものだった。
心臓が末端に血液を送り届けるみたいに、言葉が私の存在に意味をあたえてくれていた。

しかし、その心臓は動くのを止めた。
そのきっかけはわからない。
それは13年間という年月の結果なのかもしれない。
自分や両親の年齢が高くなり、現状がいつまでも続くことがないということに意識のピントが合い過ぎたからかもしれない。
あるいは不登校になってすぐに祖母が私のためにと拾ってきた猫がいなくなってしまったからかもしれなかった。

大事に書きためていた文章がガラクタに変わった。
当時の私は自分が書いた文章や言葉が消えてしまうことを恐れて、何枚も手書きで書き移した。
そしてそれを狭い部屋のあちこちに大事に隠していた。
仮に火事になったら、そんな努力はなんの意味をなさないことを知りながらも、紛失や消失を恐れて、あるモノは机の引き出しのなかに、あるものは鉄製の缶のなかに、あるモノは壁の棚にしまった。
それらが私を安心させてくれていた。

しかし、いつしかそれらが私を不安にさせるものに豹変した。

「この言葉は本当にあるのだろうか」「この文章には意味が通っているのだろか」
ただの文字の羅列でしかないのではないか。私は気が狂っているのだろうか。
誰かに確かめたかった。「この言葉の意味は通じますか?この言葉は架空のものではないですよね」「私は狂っているのでしょうか」と。

確かめるすべなどなかった。
冷や汗が体を伝った。
まるで太陽が巨大な氷の塊にでもなったのではないかと思った。
地面が崩れ落ちて、自分の体が飲み込まれてしまうようだった。
体が震えた。

そんなはずはない。
自分に起こっていることが信じられず、なんども自分が書いた文章を読み返した。
けれど、そこに何が書いてあるのかが上手く読み取れない。
そこには確かに、意味があり、ぬくもりがあり、きらめきがあったはずだった。
そこには川がながれ、日差しがあり、木々や花々があったはずだった。
それがどうだろう、そこには水の一滴も、太陽も、命の形跡も見当たらなくなっていた。
まるで知らぬまに自分が月の表面に立っていて真空のなかに閉じ込められているかのようだった。
真空のなかでは叫んでも、なにも音がしない。
そのことにパニックになってまた叫ぶけれど、自分の声が聞こえないのだ。
気が狂いそうだった。

気持ちを落ち着けるために、夜の散歩にでかけた。
夜の散歩は、それまで有意義な思索を可能にしてくれていたし、ときには感動を覚えるほどのインスピレーションを与えてくれもした。
誰もいない夜の景色は自分にとって神聖なものだった。
散歩に出かければ少しは気も紛れるはず。
しかし、自分の言葉に対する不信感は目に映るものをグロテスクなものに変えてしまっていた。
神聖な景色も、今では無理やり小さな箱に押し込められて、奇形になってしまった生き物のよう感じられた。
吐き気のようなものが込み上げた。

今すぐにどうにかしなければ。
何か手をうたなければ。
自分がバラバラになってしまう気がして怖かった。
かつての自分にとって自殺は、自分の死は何かしらの意味を持っていた。
死ぬことができるということは、そこに自分がいるという証でもあったから。
それがこのままでいたら、死ぬ自分すらなくなってしまうように思えて怖かった。

そして、まず私がしたのは、それまでの自分にとっての全てであった自分が書いた文章を燃やすことだった。
それにすがり続けていたら動きだせないと思った。
実家の風呂は薪でもわかすことができるタイプだったから、私は薪を入れるところにノートやコピー用紙を入れて火をつけた。
ノートを破ってくべるとき、それらを書いたときの情景が思い浮かんだ。
自分の葬式ってこんな感じなのだろうか、ふとそんな風に感じた。

それから外に出たいと父に伝えた。

父がずっとひきこもり支援している機関に関しての情報を集めていることを知っていた。
そのどれでもよいから、どこでもよいから、行くと伝えた。

父がすぐに連絡をとってくれたのは、隣の県である宮崎にある自立支援型のアパートというものだった。
そこはもともとホテルだった建物をアパートにして、ワンフロアが精神科のクリニックになっているものだった。
そこではほとんど一人暮らしのような形で住みながらデイケア等のサポートを受けながら自立を目指していくことができるということだった。
父が連絡をとってくれてから数日後にその施設の代表の人が私との面会や、施設の説明をしに実家にきてくれるということになった。

それは梅雨の晴れ間か、梅雨が明けた後かは定かではないが、5月の晴れた日のことだった。
家の窓は開けられ、網戸の向こうで庭の木々が風にゆれているのが見えた。
玄関のたたきのタイルや、木の机の表面が濡れたように光っていて庭の緑がにじんでいた。
居間で来客を待っている私は緊張していた。
部屋の中を通り抜けていく風を感じる自分の肌がどこかよそよそしく感じられたのを覚えている。

約束の時刻が近づくほどに心拍数が増え、気道がせまくなっていくようだった。
なるべくゆっくり呼吸するようにつとめた。
時間が明確に進んでいることを肌で直に感じた。

家の前に車が止まる音が聞こえた。
少し遅れてバタンと車のドアが閉められる音。

ごめん下さいという声。
玄関へと両親が向かう。

所在なく動く自分の手を握りしめる。
深呼吸する。

そして13年ぶりに扉が開く音がした。


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