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最近の裏金問題と徳川政治

「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」

意味は「白河の水はきれいすぎて、かえって魚も棲みずらい。昔の濁っていた田沼が恋しい」という感じです。
この句は江戸時代中期に老中を務めた田沼意次と松平定信(白河公)の政治を対比したものです。
昨今の政治の裏金問題を見ていて、歴史の授業で聞いたこの句が頭をよぎります。

田沼意次は株仲間の奨励や鉱山の採掘、貨幣の鋳造など商業を重視しました。一方で賄賂が横行していた時代だとも言われています。
その後を継いだ松平定信はそんな田沼の政治を否定。農村政策や学問の推奨を行う一方、風紀を正すため様々な規制を課しました。

一見、賄賂のないクリーンな政治をした定信の方が好まれそうなものですが、
冒頭の句には「腐敗政治でも華やかな田沼時代の方が良かったなあ」という当時の人々の思いが感じられます。

最近政治は、裏金問題を受けた規制法の改正や派閥の解消で、クリーンな政治を目指す姿勢を示して国民からの支持を回復しようとしています。

もちろん裏金や脱税はあきれるような話で、しっかり処罰されるべきだと思います。

一方で田沼時代の例からわかるように、自分の生活が豊かで楽しければ、
多少の裏金くらいはまあいいじゃん、という雰囲気にもなると思うのです。

日本の政治は昔からあまり清廉なイメージはありませんが、清廉すぎてしまうと逆にその下にいる国民も息苦しくなる側面はあると思うのです。

結局ここ最近の首相は「結果の出ていない田沼意次」だから批判されているのであって
目指すべきは(出来もしない?)清廉潔白な政治を目指すことではなく、
多少のスキャンダルは笑って見過ごせるくらいの生活の余裕を国民に取り戻すことだと私は考えています。

話は少しそれますが近頃よく言われる、自分で給料を上げるために休みの日も自己研鑽をしたり努力をしないと生きていけませんよ、という風潮も人々を息苦しくしていると思います。
また、「ハラスメント」を主張する勢力の権利が拡大していますが、新しい価値観についていけない人の価値観も無視されてはいけないのでは?と思ったりします。

何にせよ、自分に優しくしてくれない世の中のことを優しく許そうとはなりませんよね。

歴史は繰り返すといいますが、こういう混沌とした時代においては
昔の事例から学べることも多いです。
清らかな水よりも多少濁った沼の方が誰にとっても棲みやすい環境なのかもしれません。

みなさんはどう考えますでしょうか。

お読みいただきありがとうございました。コメントやスキをよろしくお願いします<(_ _)>



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