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今年はゆとり教育の成果がでる年

山口周さんがFacebookで、「なんで日本には塾があるの?」
アメリカにもヨーロッパにもなさそうなのに、
どうして日本だけ塾があるんだろう、
という疑問を投げかけていたので、
「それはゆとり教育やないか」、と思った。

ゆとり教育は2002年から始まった。
文部省が「ゆとり教育」といったのではない。
メディアを通じて誰かがそう決めつけただけで、
文部省は学習者中心の学校教育にしようとして、
1987年に4年間議論した臨教審の答申を出して、
そこからさらに15年かけて、巨大なタンカーが方向を変えるように、
ゆっくりと時間をかけて用意した教育改革だった。

それまで、「詰め込み教育」といわれていた。
国立大学が共通一次試験を始めた。
マークシート方式で、3択4択5択で、クイズみたいだった。
覚えているか覚えていないか、
計算が早いか遅いか、
高校生の仕上げの勝負は、そこだった。
量を増やし、速度を上げる。

そのためには、トレーニングの時間を増やさないといけない。
学校の勉強だけじゃ足りない。
そこで、塾だった。

わたしも、小学生だった1970年代、
私立の中学に入るために、平日と休日、塾に通った。
休日は汽車に乗って2時間、佐世保から長崎へ行っていた。

勉強とは覚えることで、考えることではなかった。
そこから、自分で考えて自分で行動する、
生きる力をつける、
という方針転換だから、ゆっくりやっていく必要があった。

調べ学習、総合学習が導入されたけど、
大学入試は相変わらずクイズ形式だったから、
学校では生きるチカラをつけることを目指しながら、
生きている限りずっと学び続ける習慣をつけることを目指しながら、
世の中渡っていくチカラをつけるトレーニングのためには塾が必要だった。

ゆとり教育が時間的到達地点としたのは、2020年。
2020年に、ゆとり教育受けた子どもたちがおとなになって社会に出て、
その子どもたちを育てた親たちが社会の中枢で活躍するようになって、
日本と世界はきっといい世の中になっているはずだ。

どうだろうか。
ゆとり世代の文部科学省官僚たちと語り合うイベントがあった。
入省3年目。

昨日、高校生の「学生化」を書いた。
大学生は「生徒化」してる面もあるが、
わたしが大学生のときより、はるかに学ぶ時間と機会は多く取れている。
まだちょっと足りないけど、
ゆとり教育は、そこそこ成功してるじゃないかと思う。

ただ、社会の変化よりもかなり遅れて人々の意識は変化する。
社会は量より質を優先させているのに、
人々はまだ、量も質も、二兎を追っている。
だからまだ塾は必要だし、
人々の意識が質を求めだしたとき。
塾はいかに質を上げるかのトレーニングのために、存在するんだと思う。