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暇(いとま)は「意」と「間」である

秋田に田植えに来ている。
いっしょに前泊しているみっしーとお酒を飲んでいると、
彼がいった。

学校とはなにか

「schoolの語源はギリシア語のschle(スコレー)で、
それは暇(ヒマ)っていう意味なんですけど、
漢字の暇は(いとま)っても読むんです」

みっしーは大きな会社を辞めて、
地域おこし協力隊として釜石に移住してきた。

「いとま、って『意(い)』と『間(ま)』なんです」

ほほう。

「つまり、意識とか知識とか志、時間空間そして仲間、なんです」

もう適当に酔っ払っててうろ覚えだから、
わたしなりに解釈すると、こんな感じ。

スコレーを語源に持つスクール(学校)は、
もともと「いとま」の過ごし方をおしえるところだった。
時間の使い方、つまりどのくらい働いて、どのくらい遊ぶか。
空間の使い方、つまりどういうところで暮らすか。
そして仲間の作り方、仲間の大事さ、を教える。
それプラス、教養。

『怠惰への讃歌』ふたたび

いやそれって、バートランド・ラッセルの『怠惰への讃歌』そのものじゃないか。
ラッセルはヒマ(いとま)を知的に使うセンスを養うために、
哲学、歴史、文学などの教育が必要だ、と。
それは教養である、と。

考えてみれば、スコレーで教えていた教養は、
文法、修辞学、弁証法、算術、幾何学、天文学、音楽の「自由7科」。
ヒマ、いとまの過ごし方を教えていたのに、
いつのころからなんだろうか、
busyを語源に持つbusinessのことを教える学校がもてはやされ、
みんなビジネススキルを身につけようと必死になり、
ビジネススキルをありがたがるようになった。

でもいままた、「いとま」が大事だと気がついた。
いやいや、「いとま」、じゃなくて、「いとま」大事。

だからわたしは、秋田に田植えに来ている。