伝説の舞台は伯耆国だ! 八岐大蛇が明かす「出雲神話」の謎/西風隆介
須佐之男命の八岐大蛇退治といえば、『古事記』『日本書紀 』神話の名場面として知られ、この神話の舞台が出雲であることを疑う者はいない。ところが、緻密な考証を重ねることによって八岐大蛇伝承の原郷が出雲ではなく、その隣の伯耆であるという衝撃的な事実が判明した!
スリリングな謎解きは、鳥取の霊峰大山の麓に広がる巨大遺跡からスタートする──。
◉特別企画◉ 文=西風隆介
イラストレーション=坂之王道
第1章 出雲の最初期を伝える妻木晩田遺跡
発見された日本最大の邪馬台国時代のムラ
八岐大蛇は出雲の国の物語である。そのことは一般常識と化していて日本人のだれひとりとして疑わないだろう。
だが、真実は違うのだ。
同様に出雲の国も、出雲の最初期の国は、いわゆる出雲の国(古代の行政区分上のそれ)には、存在してはいないのである。
「何を頓珍漢なことを!」と、読者からお怒りの声が聞こえてきそうだが、見捨てずにお付き合いを願いたい。まずは出雲の国の話からしよう。
大山は、山陰および中国地方の最高峰で標高1729メートルの霊峰だが、そのなだらかな裾野に、知られざる古代の遺跡群があったのだ。「妻木晩田遺跡」と称せられたそれは、二十数年前に偶然発見された。大山スイス村という大規模リゾートを作ろうとして試掘した際にだ。だがバブルの崩壊もあって開発は断念され、広大なリゾート用地を県が買い取って、本格的な発掘調査が開始された。そして驚愕の遺跡群が姿を現したのである。
竪穴住居跡約450棟、掘立柱建物跡約510棟、そして墳墓が39基。それらが標高80〜180メートルの丘陵地帯に点在し、土器、石器、鉄器、碧玉、ガラス玉、破鏡(内行花文鏡)などの遺物も多数出土した。遺跡の総面積は約170ヘクタールで、現在その1割程度しか発掘調査を終えておらず、それでこの数字だ。年代的には、弥生時代中期末〜古墳時代前期、西暦でいくと、紀元前50年ころ〜250年ぐらいとなり、約300年間続いたムラの遺跡なのだ。
ところで、卑弥呼は「魏志倭人伝」など中国側の資料から、没年は247年だと判明している。その卑弥呼の活動年がちょうど含まれており、すなわち邪馬台国の時代、さらにそれよりも200年ほど古くからあったのだ。
弥生時代の集落遺跡としては佐賀県の吉野ヶ里遺跡が有名だが、妻木晩田遺跡は、その2〜3倍の規模で、日本で最大級のムラの遺跡なのである。
八雲立つ出雲の丘
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