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何かを書いている(続きを書いた。えらい)

面接から家に帰ると、一年前の夏休みに父親に買ってもらった黒いスーツをそそくさと脱ぎ捨て、クローゼットの奥にしまい込んだ。捨ててしまおうかとも考えたが、父親の笑顔が頭によぎり、その決心がつかなかった。
これからの人生では決して使うことがないだろうが、捨てられないものがいくつかある。小学校の卒業式でもらった青いボールペン、入学試験の不合格通知、二十歳になったときに買ったウイスキーの空き瓶(ワンショットばかり中身が残っている)。そのようなガラクタが、ふとした瞬間に目に止まることがあった。それらは部屋の至る所に転がっており、時に(僕の知らない間に)場所を移動させ、僕の視界の片隅に、主張少なめにちょこんと居座っていた。僕はそれらが目に入ると、少し迷った挙句に手にとって、また元の場所に戻した。それらは全て幸せな記憶と紐づいていた。いや、幸せな記憶に僕が意図的に結び付けていた。記憶というものは都合がよく、なんら関係のない出来事をも、映画の編集のように意味ありげに関連付けてしまう。
僕はこの脱ぎ捨てたスーツが、そのような意図的な編集のもと、幸せな記憶と同化することを望んだ。いつかこの部屋を出て聞くことになった時に、たまたま掘り起こされて、何かの思い出を喚起すればいい。

アルデンテよりも硬い素麺(素麺にアルデンテと言うのは間違いだろうか?)を食べ終えた僕は、喉の渇きを癒すべく(めんつゆをかけすぎたのだ)、冷蔵庫の扉を開けて冷たい飲み物を探した。しかしそこには賞味期限の一ヶ月以上すぎた乳酸飲料と、冷えすぎた缶ビールしかなかった。水道水をそのまま飲もうかとも考えたが、夏の水道水はぬるく、カルキの匂いが鼻につく。ビールを飲むにはまだ早すぎる時間だった。
僕は諦めて最寄りのコンビニに行くことにした。しかし窓の外では大粒の雨が汚れたベランダに降り注いでいた。と、僕はクローゼットの奥の方に、まだ使っていないレインコートがあることを思い出した。今では疎遠になった友人が、かつて誕生日にくれたものだ。その時は誕生日にレインコートをくれる友人を、軽蔑とは言わないまでも少し悪く思ったのだが、今になってそれがありがたい贈り物であることに気がついた。もう少し早く気がついていれば、彼との関係はもっと濃密なものになったかもしれない。しかし今更彼に連絡して、「あのレインコート、本当に役に立った」と言うわけにもいかない。それに彼は役に立たないものを他人に贈ることに喜びを見出す類の人間だったのだ。
コンビニに行くのにレインコートを着て行くのは、どこか不格好でやりすぎなようにも思えた。それはまるでベランダでの家庭菜園のために、硬くなった地面を耕すためのトラクターを買うようなものだ。常に大は小を兼ねる、と言うわけでもない。しかし今回の場合に限っては、大が小を兼ねているのだろう。全てはものさしの問題であり、今回はたまたまそこで生まれる誤差が、一般的に許容されるものであっただけだ。
僕は重い腰を上げてクローゼットの扉を開けた。中には畳むのを放棄したTシャツやら、皴だらけになったトランクスやら、片方だけになってしまった穴のあいた靴下やらが、無造作という言葉では形容できないほど無造作に(僕はわずか一文の中にすら論理的矛盾を起こしてしまう男なのだ)、ざらついたベニヤ板の上に所狭しと置かれていた。僕はその衣服達を全てフローリングに投げ捨てて、まるで宝探しをするようにしてレインコートを掘り当てようとした。するとその中に、戦闘意欲を掻き立てるような真っ赤な色をした包装紙で包まれた、小さな箱があった。僕にはその箱を見た記憶が一切なかった。得体の知れない怪物が、僕のクローゼットの中にポツンと置かれている。
包装紙は黄ばんだセロハンテープで留められており、よく見てみると包み方も雑だった。プロの仕事ではない。テープの劣化具合からすると、この小箱は、だいぶ前に誰かに包まれたまま僕のクローゼットの中で眠っていたのだろう。僕は遺跡から掘り起こされた歴史の欠片を手に取る学芸員のような手つきで、その箱を顔の前に床と平行になるようにして掲げた。そして少しの間逡巡して、僕はその包装を剥がして中の箱を開けることにした。
覆いの下には角が丸くなった段ボールの箱があった。どうやら生鮮食品ではなさそうだ。ここ一年ばかり常に臭っていた部屋の悪臭の原因が、この箱によるものでないことに少し安堵し、他の原因をまた探さなければならないことに少し落胆した。

(つづく)

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