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予定調和な旅に出る——『コンパートメントNo.6』

この文章は、間違いなくネタバレを含んでいるが、ある意味でネタバレについての文章でもある。

列車での旅は退屈だ。一度車両に乗り込んでしまうと、私たちはある閉鎖空間の中に閉じ込められてしまう。そこから始まるのは、目的地への直線的な移動だけ。私たちに経路を決定する権利は与えられない。世界へとつながる通り道はただ列車の窓だけであり、それは映画のスクリーンと同じように、あくまで描写として、私たちの差し伸べる手を頑なに拒絶し、ただその枠内でのみ自立している。それは景色であり、映像であり、平面であり、私たちの世界と決定的にかけ離れたものだ。

映画はその短い歴史の中で、スクリーン上での光の戯れを、あらゆる手つきで私たちの世界に引き戻そうと試みてきた。それが幻想であることはいうまでもない。カメラによる複製として、高々とその映像の価値を掲揚しようとする試みは、映画にまつわる理論の中でまた一つの大きな流れを形作っている(もちろんそこで敵対視されているのは、いわゆるモンタージュ理論——映像と映像の間、つまり編集に映画の特性を探り当てようとする試みとして曖昧に定義しておこう——である)。しかし、いかに映像に真実を見出そうと試みたところで、その平面は、あくまで「第四の壁」の向こう側で私たちにその姿を開示しているのみだ。

それならば、車両に閉じ込められた人間が窓外に感銘するのも、動く密室の拘束から逃れようとする人間の欲望が、ただ後方へと流されていくだけの映像に、曰く言い難い意味を与えようと試みているからなのかもしれない。私たちはベルトコンベアーに乗せられた人形であり、その不愉快な事実を隠蔽するために、窓の向こう側を神聖視するのである。

ここで列車と映画の類似性について簡単に触れたのは、『コンパートメントNo.6』というフィンランド映画について何かしらを書くためだ。フィンランド映画といっても、舞台はロシアで、もちろん使用言語はほとんどロシア語である。また、この作品は、出来事のほとんどが寝台列車の中で展開する。

少し長くなるが、あらすじを述べておこう。少し長くなる理由はあるから許してほしい。

考古学を学ぶフィンランド人留学生・ラウラが、北の果てにある遺跡(ペトログリフ)を目指して、寝台列車に乗って北の地、ムルマンスクを目指す。ラウラがモスクワで親しい関係を結んでいるのは、ある種の知的グループ——インテリゲンチアと呼んだとてさほど問題はあるまい——である。清潔な部屋でワインを飲み、歴史とは何かについて論じ合う。そこはペレーヴィンの引用で笑いが生まれるような空間である。

ラウラはそこに、同性の女性・イリーナという恋人がいる。ロシア人である彼女もまた、そのような知的空間に生きる人間の一人だ。ただ、何らかの事情で(おそらくインテリゲンチアとしての気分で)、イリーナはムルマンスクへと付き添うことができない。

ラウラはモスクワで、寝台列車に乗り込む。そのコンパートメントの中には、若い労働者風の男・リョーハの姿があった。彼はウォッカでぐでんぐでんになり、下劣な下ネタや、悪態を垂れる。最悪な出会いだ。リョーハは、ラウラと同じ目的地を目指しており、その地で出稼ぎをするのだという。ラウラは同室の男に嫌悪感を覚え、車掌に他の部屋への移動を願い出るが、断られる。列車はペテルブルグで一時停車する。彼女はそこで列車を乗り換えようとする。そのついでに、彼女は自分の恋人に電話をかける。男の愚痴を吐き、慰めの言葉をもらう……多分そんなことを期待して。しかし、恋人は彼女を軽くあしらう。今、ちょっと忙しいから。まるで吠え続けるペットの犬に呆れるように、イリーナはラウラとの電話を、ほとんど命令口調の「切っていい?」で締めくくる。

ラウラは再び、同じコンパートメントに戻る。荷物を全て持って出ていった彼女に、脈略なく(この脈略なく、というのが重要なのだ)リョーハは接近しようとする。前夜とは異なる人格であるかのように、その接近は、不器用に優しい。とはいえ、ラウラはそんなリョーを受け入れることもない。彼女は一人で手持ちカメラを回し、モスクワでの知的生活を記録したそれに、猥雑な閉鎖空間を追記する。

一泊する駅、ペトロザボーツクで、リョーハはラウラを街へと誘う。もちろん彼女はその誘いを断り、一人で街へ出ていく。公衆電話から、恋人に電話をかける。しかし、恋人が電話に出ることはない。虚しい呼び出し音が響く電話ボックスの中で、ただ相手がその受話器を取るのをひたすら待ち続ける。電話ボックスの外からは、そんなラウラを罵倒する地元の男が、硬いてのひらで汚れたガラス板を叩いている。すると唐突に(やはりこの唐突に、というのが重要なのだが)、リョーハがその場に現れ、彼女を救い出す。そしてリョーハは再びラウラを誘う。

二人は車に乗って、街を進んでいく。その運転は、あまりにも自由だ。彼らが到着するのは、ある老女が暮らす一軒家。結局誰であるか明かされることないこの老女とともに、三人で酒を酌み交わす。

翌朝、ラウラとリョーハは寝台列車に戻る。ペトロザボーツクに到着する以前にはありえなかった親密さが、二人の間に芽生えている。狭いコンパートメントの中で、新聞紙を取り合って戯れる男女。それは知的な笑いでなく、散らかった笑いである。

すると、寝台列車に、あるフィンランド人男性が乗り込んでくる。何か手違いがあった様子だ。ラウラは彼に話しかけ、自分のコンパートメントに来ないか、と誘う。しかし男がコンパートメントにやってくることに対して、予測通り(これも重要)、リョーハは不機嫌な態度を見せる。男はリョーハの反発を意に介せず、甘いギターの音色を奏でたりもする。

男は途中の駅で下車する。ラウラは、その時自分のビデオカメラが無くなっていることに気が付く。男が盗んでいったのだ。ラウラは男を罵る。「人間はみんなクソだ」とが呟く。

ラウラとリョーハは、再び親密さを両手に抱え込み、食堂車に押しかけ、シャンパンを開ける。クソみたいな人生に乾杯、と言わんばかりに。ラウラはそこで、以前描いたリョーハの似顔絵を渡し、自分の絵も描いてほしい、と懇願する。この旅が終わっても連絡が取れるようにと、リョーハの連絡先を聞く。しかし、リョーハはその頼みに、不機嫌な様子を見せる。その理由は明示されない。何か曖昧な形での孤独が、刹那的な邂逅を半永久的な関係に変容させることを拒んでいる。リョーハは言葉少なく、その場を去る。ラウラは彼を追いかけ、コンパートメントで半ば強引に彼を抱きしめ、キスをする。しかしリョーハはほとんど明らかに示唆される続く誘いを拒み、その場を立ち去る。

リョーハの消えた寝台列車は、目的地に到達する。彼はもういない。ラウラは一人の部屋を出る。とうとう北の果てまでやってきたのだ。彼女はペトログリフに向かう。しかし、季節は冬であり、ペトログリフへの道は、通行禁止になっているという。恋人へ電話をかけるが、そこでの会話は先と同じように、どこかよそよそしいものであった。彼女はリョーハをあてにして、彼が働いていると思しき作業現場へとタクシーを走らせる。そこに書き置きを残し、彼女はホテルに戻る。

眠っているラウラのもとに、当然のごとくリョーハがやってくる。言葉少なく、ラウラを案内人の運転する車に乗せる。到着したのは、どこか海沿いの船着場。今日は風が強いと拒絶する男たちを、リョーハは必死に説得する。結果として、運航が認められ、ラウラとリョーハは、ムルマンスクの海岸地帯、ペトログリフのある場所へと到達する。それはお世辞にも見栄えがいいとは言えない遺跡であり、ラウラの感動は、激しい嗚咽とともに表現されることもない。納得したように、ラウラは帰ろうと告げる。二人は猛吹雪の中を、じゃれあいながら明るく歩いて帰る。そして再び二人はリョーハの働く現場へと戻っていく。ラウラはタクシーに乗って、リョーハと別れる。車は動き出し、ラウラが弛緩した微笑みを浮かべる横顔がカメラに収められ、映画は終わる。


モスクワから最北端の駅ムルマンスクへと至る寝台列車は、たとえば歩いたり車を運転したりする場合とは異なり、それしかありえない解として、一意に決定された道を進む。そしてその唯一性こそ、もはや使い古されたロードムービー的展開をなぞることに、ある種の基盤を提供している。そこにラウラとリョーハの選択する余地は残されていない。

列車は北へ向かって進む。その経路は、旅を取りやめることでしか変更することのできないものだ。しかし、彼女は旅を続けていく。つまり、ラウラはただ受動的に受け入れるほかない旅路を、自らのうちに受け入れることを決意する。彼女は運命に抗うことなく、民話的に敷かれたレールの上を、ただ目的地まで進んでいく。そのとき、不和とともに出会った二人は、同じコンパートメントの中で、かりそめの共同生活を送ることになる。

極めて魅力的な導入だ。しかし図式的な導入でもある。インテリと労働者の二項対立(それはワインとウォッカの違いが比喩的なレベルでも機能している)。とある密室空間に閉じ込められた男女。明確な目的地。

私たちは、この前提から、物語の大筋を予測することができる。ラウラとリョーハは、一度親密になり、何らかの破局ののち、さらに大きな親密さを獲得することだろう。二人は然るべき時にキスを交わし、刹那的な出会いを心に刻み込みながらも、終局に至って決定的に道を違えることとなるだろう。映画を鑑賞した私たちは、その予測が、大筋として的中していることを認める。つまり、この映画は、前半30分を見るだけで、かなりの観客がその終局までをも容易に想定しうる映画なのだ。私たちはそのような物語を、数多くの映画の中で幾度も見てきている。例えばアメリカン・ニューシネマの作品を一つ思い出してみればよい。

私たちが想像しているそれらのロードムービーと本作との違いは、前者では主人公に経路を選ぶ選択肢が与えられている点だ。バイクを走らせ、車を運転し、またときにはただひたすら歩いていく。そこで彼/彼女らが辿る道は、自ら選択した結果として前方を指し示している。その選択は、あくまで自発的な選択であるかのようだ。自由を愛するヒッピーたちの、自由を求める旅物語。

しかし、その旅物語は、例に挙げたお決まりの展開に従って進展する。つまり、主人公に見せかけの選択権が与えられることで、極めて不自由で、ほとんど画一的なこれらの物語が、さも自由の映画のごとく偽装されている。その偽りの幻影こそ、ロードムービーの原罪だといわねばならない。ロードムービーにおいて、自由は幻想なのである。

しかし、本作において、もはや主人公は選択する権利すら与えられていない。寝台列車とは、自発的な選択を行いえない密室空間であり、その性質上、彼女は列車の進むままに流されていく。車両の内部は、外部が窓以外に存在しないという点において、映画館の暗闇と類比されるのは先に触れた通りだ。つまり、彼女は窓の向こう側に幻想を抱きながら、ただ受動的に、ロードムービーという神話が自らを覆いつくす瞬間を待ち続けなければならない。ここにはもはや自由の幻想すら存在しない。

ロードムービーが、その自由らしさと裏腹に、そうした物語が規定する構造に拘束されていること。本作が車ではなく、レールの敷かれた車両に乗って旅をするという物語であることは、その逆説を逆手に取った、極めて意欲的な試みであると言わねばならない。コンパートメントという密室空間は、ロードムービーの堅苦しさをこれでもかと強調する。窓越しに見える広大な景色は、スクリーンという窓と列車の窓を透過することで二重化され、その虚飾を暴き立てる装置として機能している。本作は、自由を目指す映画を、極限まで拘束的に描き出すことで、ロードムービーという神話を異化している。

その拘束をあからさまに演じているのが、リョーハであることは言うまでもない。彼の行動は唐突であり、感情の流れを追うことができない。ロードムービーであれば、そろそろここらで主人公に手を差し伸べてやろうか、不機嫌になってやろうか、お別れしておこうか、といわんばかりに、物語構成の原理に従って行動しているようである。そこに彼の自発的な行動など見出すことはできない。リョーハの葛藤が、全く具体的な情報を欠いたまま、ただ俳優の演技のみによって現出しているのも、人格を持った人間ではなく、ただ物語上の機能として扱われているからだろう。プロップ以来の物語論を想起するのも、あながち検討はずれではない。民話分析に端を発する物語論は、登場するキャラクターを、プロット上の機能として分析したものだ。そこに近代的自我が顔を出すことはない。優先されているのは、人間の複雑さなどではなく、あくまで物語の構造だ。

先にも触れた通り、ロードムービーは、あたかも自由を目指す個を描き出しているようでありながら、実情としては構造的な物語であり、そこで生きている人物たちは、巧妙に演じられたマリオネットにすぎない。そこに自由めいたものが見られるのは、旅という主題が、無意識のうちに自由という連想へと人を誘うからに他ならない。

リョーハは、もはや棒で操られたマリオネットである。自らが機能であることを全く隠すことなく、粛々と業務をこなしていく。私たちが見ているのは、寝台列車という閉鎖空間の中でもがく個人などではない。画面上に呈示されているそれは、機能の十全な戯れにすぎない。

予定調和な旅に出る。その場に行く前に全てを知り得てしまう現代の私たちは、不確定性を残すことなく、きちんとノルマをこなさなければならない旅に出る。しかし、あれを見たことではなく、あれを見ることができなかったこととしてその旅を思い出すとき、やはり不確定な何かに惹きつけられる私たちの歪な心が垣間見える。それは列車から降り立ち、あてもなく街を歩く美徳と、案外同じ種類のものなのかもしれない。

確かに本作は、不確定なものを全て失った後の旅を、列車というその主題にぴたりと適合する装置を用いて描き出したロードムービーである。それは見せかけの自由を、端的に批判する試みであったのかもしれない。少なくとも、この映画はそのほとんどの部分において、ロードムービーの、広く言えば映画の予定調和性を主題歌したものである。

しかし、ラウラは、やはり列車から降りるのだ。一時停車した駅で、自らその列車から逃げ出そうとしたり、リョーハから強引に誘われたりして。それは確かに拘束の中の自由である。結局彼女は時間がくればまたあの狭いコンパートメントに戻らなければならないし、何よりリョーハは物語の機能を具現化した存在であったのだから。とはいえ、車内から降り立ったラウラをロングショットで捉えた画面の美しさは、車内で窒息しそうにもなる手持ちカメラの画面と対比する必要もないくらいに、ただ美しい。一歩先すら予測できない人間の、真なる自由がそこには存在する。その美しさこそ、ロードムービーの中の無法地帯であり、旅を計画する中で私たちが遠ざけた、不確定性の回帰する地点であることはいうまでもない。自由を演じる厳密に固定化された構造の中に、私たちは、予定調和でない混沌を見出すのである。

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