見出し画像

人のことをそっとしておく優しさを育てよう。

ひとつ前の記事には
思ってもみない反響をいただいて
とても嬉しい気持ちです。

読んで下さったみなさん
ありがとうございます。

自分の嫌いな人にも人生があって
家族がいたり、暮らしがあったり
実は親の介護や自身の持病に奮闘していたりと
色々ある想像をすると
嫌いな気持ちは変わらないけど
少し柔らかい気持ちになれた…と言うような
メッセージをいくつかいただきました。

人は、誰かにふわっと誘導されないと
心の中にあるしこりや怒りから
離れることができない時があります。

そんな時、
自分に共感してくれそうな物語の小説を読んだり
映画やドラマに触れて
心を揺さぶられたい衝動にかられるんですよね。

誰かのそういうもののひとつになれるよう
noteもコツコツ楽しみながら
程よく頑張りたいと思います。


今日は、昨日の記事の続きになるかもしれません。

人が何かを嫌う時には
いくつもの理由があるとは思いますが

【嫌う】よりもずっとタチの悪い
【攻撃する】という事について
その本質を探りながら書こうと思います。


みなさんは、誰かが攻撃されている所を見たり
それをされている人を知っていたり
すると思うんですが

【嫌う】という意識の低辺には
自分の存在の危機や
自分の自信の無さを刺激されることの恐怖が
あると思います。

だから、敵と見なして【嫌う】わけですね。


でもそれって、女性の世界なら
容姿、年齢、才能、身分、仕事への
ジェラシーでしかないのがほとんどです。

だから、綺麗な人を【嫌い】と言った時点で
周りからは「つまりは彼女に妬いてるのね。」と
見られることもある。←ちょい恥ずい


それでもうひとつ私が今日書きたいことは
私達人間というのは、犬や熊と同じで
【動くもの】に目がいく生き物だと思うんです。

もっと言うと
【自分とは違うもの】や
【人がやらない事をやる人】
【自分もやりたいことをやってる人】に
目がいく性質がある気がします。


目がいく、、までは普通のことです。
「おっと凄い人が現れたなぁ、やれやれ。」で
終わらせられたらいいのです。  

しかし、人によっては
自分や一般と【ただ違う】だけなのに
【違う】ことが【間違い】だと主張し始めて
ついには攻撃に走る人がいますね。 

今のご時世、
多様性という言葉が広く使われ始めて
ジェンダー問題、子どもの個性、
夫婦の在り方、働き方、つまりは生き方を
ひとくくりにするというのはナンセンス!とまで
言われるようになったはず?なんですが

人が変わることや、元いた位置から動くことに
異常に文句をつける人達は今だに沢山います。


変わることが怖い人や
変わることに寂しさを感じる人や
変化を受け入れるのが下手な人は
自分が変わらないからか、人の変化にも口を挟む。

前の方が良かっただの
それができるのは今だからよだの
あなたを信じていたのだの
自分勝手なことを並べて
相手の変化を平気で妨害しようとします。

まぁ、これは他人同士に限らない問題で
親、姉妹、兄弟、家族、親戚、姑は
特にそれが激しい気もします。

人間関係というのは
付き合いが長くなれば長くなるほど
ある意味で宗教化する、とよく思うのです。


そのため俯瞰の視点がない人は
うっかり相手との境界線に足を踏み入れて
「この人は自分の言うことを聞いてくれるはずだ。」と勝手に思い込むんですよね。
そんな訳ないし、そうじゃなくてもいいのにね。


そういうことから
動く人、変わっていく人
新しいことや風変わりなことをやろうとする人を
"攻撃する"という現象が生まれる気がします。

.

昔はちびまる子ちゃんやサザエさん一家のような
2世帯、3世帯の家族が多かったけど
今はめっきり少なくなりましたね。

これも時代の変化だと思いますし
舅や姑となる人達が、
あまりにも時代錯誤な価値観だった場合
新しい世代の可能性や楽しみを
邪魔するばかりか潰すことにもなり兼ねない。


だから、よっぽど境界線を引くか干渉をしない等の
マナーがきちんと守れる家族以外は
この時代にサザエさん一家スタイルは
存続できないと思うのです。

.

.

"出る杭は打たれる"とはよく言います。
でも出る杭もないと、世の中は進化しない。

自分の考えや価値観と違う人もいないと
バランスの悪い世界になる。

男性ばかりが生息する星だったら
何もクリエイティブではないけれど
【女性】と【男性】という
究極の対極する存在を許すことで
地球は今日まで地球を営むことができている。

.

人は、"自分と違う"ということに
もっと慣れないといけないし

その人をそっとしておく

その人をそっと応援する

そんな素敵なマナーを
身につけられたらいいなとよく思います。

.

"そっとしておく"ができない人が割と多くて
私もびっくりすることや
傷つくことがたまにあるんです。

地方や田舎は特にそう。

目立つ人や忙しそうな人
ちょっと派手な人や都会の人みたいに垢抜けた人
そういう人を叩く習性があって
窮屈になった人達はみんな、地元を離れ
多様性の許される場所に暮らすようになる。


息がし辛いって、とても苦しいことです。

今の私も、北国に越して来たことで
若干の寂しさはあっても
格段息がしやすい日々を送っています。

.

.

変わる人をそっとしておく。

異端児をいじめるんじゃなくて興味を持つ。

自分と価値観の違う人が何に目をつけるのか
そっと観察してみる。

自分もやりたいことをやってる人を妬むよりも
その人が楽しそうかどうかを観察する。

ついつい人をイジったり茶化してしまう人は
こういったことが少しでも意識できると
自分が楽になるかもしれません。

自分は冗談で茶化したつもりでも
相手は傷ついている場合ってよくありますから。

.

少し話しは反れますが
攻撃する、いじめる、イジることは
心がとんでもなく病んだ人がすることです。


攻撃されたり、いじめられる人も当然心配。
でも、する側の精神状態はある意味もっと心配。


それがいい大人でも、子どもでも、学生でも
どんなことがあったら
平気で人を攻撃することができるのか…

それをやる人の心の悲しみや闇の深さは
計り知れません。

事件でも起こした場合
被告側にも弁護人が付きますが
そうじゃない以上、攻撃する側の心に目を向けて
ケアをするという概念が日本にはまだない。 

そういう事を必要としている人は
必ずいると思うんです。

取り乱した人や精神障害者と言われる人にも
生まれた以上、この世に座る席があるのではと。

.

みんなで意識をひとつにして
キャンドルなんて焚いて、
愛と平和を祈ろうよという集団もいれば

一方で、どうしたら高齢者を騙せるかや
どう人をおとしめるかを考えている集団もいて

世界にはいつも
相反したものが常に存在しています。


だから、みんなで同じ瞬間にLove&Peace!!なんて
地球には永久に実現しない訳なんですが

せめて自分はどちら側の意識に加担していたいか…
最後はもう、そこしかないなと思います。

自分の中の最高に意地悪な自分と
目が合う日もあると思うんですよ、たまに。

でも、そんな自分を自分でいさめられないと
大変なことになります。

いさめられずに助けを求めて来られる人達には
私が代わりにエイ!コラ!と
いさめさせてもらっていますが笑

地味ですがそういうことの積み重ねが
生きるということだと思います。

私達の名も無き毎日が
誰かのためになってると信じて
生きていたいですね。

.

今日も最後まで読んで下さって
ありがとうございます。

この調子で書き続けられますように😌

Asami











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?