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【18日目】自分とは「どこからどこまで」なのか(ニンゲンのトリセツ)

◆「カラダは『境い目』である」とはどういうことか

 「モト」という新しい考え方を通して見ると、僕たちが普段考えもしなかったような、カラダの大切な役割が分かってきます。それが「境い目」という機能です。

 この世界は「モト」という「素粒子」でできているという話をしましたね。この世界にあるあらゆる物質と、ココロのような非物質的な存在は、モトからできていると。

 そして、カラダというのは、ココロを形作っているモトの「一番濃い部分」だとも書きました。僕たちの周囲をモヤモヤと覆っている「ココロ」というものの中心部分で、一番モトが濃いところにあるのがカラダである、と。

 ココロを形作っているモト、それがギュウギュウに集まっている場所、そここそがあなたや僕の「カラダ」がある場所なんです。ギュウギュウに集まっているから、物質の形をとっているんですね。ほら、モトはたくさん集まると「非物質」から「物質」になれるんでしたね、素粒子なんだから(このへんの事情は専門的なので、エキスパート編でもっと詳しく解説します)。

 だから、僕たちの「感覚」でいうと……やっぱりこの世界は「自分」か「自分以外のなにか」に分かれているんですよね。
 この

二つの「境い目」がカラダ

だ、というわけです。

◆自分というのは「どこからどこまで」なのか

 もちろん、ちょっと「微妙」なものもあります。例えば、あなたの鼻の穴からこぼれ落ちた鼻血は、自分なのか? 自分以外のなにかなのか? 微妙ですよね……着ている服なんかもそうです。どこまでが自分なのか? なんて、考え出すとキリがなかったりします。

 そうは言えど、やっぱり「自分とはどこまでか?」という疑問の大まかな答えはやっぱり「カラダ」の内側か、外側か、という結論に落ち着くんじゃないかと思うのです。

 そんなわけで、僕たちはカラダの内側を「自分自身」、そして体の外側にあるものを「それ以外のなにか」、もっと言えば、体の外側にある別のカラダを持った生き物を「他者」「他人」と認識して、普段の生活を送っているわけです。

 そもそも「モト」そのものは目では見えませんし、匂いも感じられませんし、電子顕微鏡で観察することもできません。ですので僕たちは普段、実際に目に見えるもの、さわれるものといった「物質」でできた世界を、カラダを使って知覚しながら生きています。だからこそ僕たちは

「これが世界のすべてだ」という「感覚」

を『信念』(ABC理論の「B」)として持ちながら生きているはずです。

 ここまで、難しい言葉を使ってゴチャゴチャと考えてきましたが、とても当たり前のことが書かれていましたよね。まとめると、世の中は自分と、自分以外に分かれている、ということです。

◆どこまでも「モトがあるだけ」の世界

 ところが……この世界にあるものはみんなモトでできているんでしたね? 物質であろうと、非物質であろうと。

 あなたのカラダの部分もモトでできていて、その周りをおおっているココロもモトでできている。そして、あなたの目の前にあるコップや本や食べ物もモトでできているし、もちろんあなたの目の前にいる人のカラダもモトでできています。さらに、その人のココロもモトでできているんでしたね。

 だから、本当はこの世界は、どこまで行っても結局は

「モトが集まっている場所」に過ぎない

んです。濃い薄いの差があるだけで。

 この「モトを通して見た世界の姿」が、僕たちの感覚と矛盾するんじゃないかと僕は思うのです。

 僕たちを造るモト、僕たち以外のものを造るモト。どちらもモトなんだから、

本当は境い目なんてない

はずなのに、僕たちはカラダという「境い目」を意識して生活している……こういう「矛盾」というものが、モトを通すと見えてくるわけですね。これはどういうことなのでしょうか?


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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)