感覚とそうでないもの

母の務める学校で、運動会の徒競走を男女一緒にするかどうか、議論になったらしい。くじ引きにすればどうか?男女関係なく、タイムが近い同士で競い合うように設定すればよいのでは?等、さまざまな意見がでるなかで、ある先生から「男女混交にしたら、女子に負けた男子が傷ついてしまうのでは?」という意見があったとのことだ。

保育園でも、子どもの呼び方にかんする議論をしたことがある。いま、わたしたちは子どもたちを外性器の形態で「~ちゃん」「~くん」と呼び分けているわけだが、それを「~さん」に統一するのはどうか?という意見があった。賛成意見も反対意見もあるなかで、子育てをしている職員から「自分の子どもが保育園で~さんと呼ばれていたら、なんだか距離をおかれているみたいで少し悲しい」という意見がいくつか挙げられた。

この問題についてわたしが思うのは、”教育者の感覚”について、である。教育者や保育者が子どもと接するにあたって、自分の価値観や道徳のようなことを問われる場面は、とても多い。というより、例に挙げたような人権感覚があらわになる議論では、結局のところ付け焼刃の学問より自身の感覚が先んじてしまうのだ。

実際のところ、そういった感覚はとても大切で、漠然と感じたものを言語化していくことは、自分の教育・保育観を見つめなおし、自身の得意なことや偏りを再発見することにつながる。しかし、今回の事例はどちらも、感覚が子どもの権利を邪魔したケースに思えてならない。

母の小学校の事例では、「男の子が女の子にスポーツで負けるのは悔しいだろう」という感覚が男女差別に基づいてることに、教育者自身が気が付いていない。その余計な配慮は、友達に負けたくないというプライドではなく、女子には負けたくないという劣等感を子どもに植え付けてしまう。それはわたしたちの世代が断ち切り、次の世代に決して繋いではいけない差別の感情である。

保育所の事例では、「~さんという呼び方には距離があり、~ちゃん、~くんという呼び方には親しみがある」という感覚が、子どものジェンダーへの配慮を置き去りにしている。次の世代を生きる子どもたちは、生殖器の在りようにかかわらず、主体的に性選択をしていくのだと思う。外性器の形態で呼び方を決める我々の世代のやり方を次の世代に押し付けていることについて、我々はもっと慎重になる必要があるのではないだろうか。

もちろん、事態はそんなに単純ではない。教育や保育は、子どもと保育者・教育者の二者の間で行われるものではなく、保護者や地域社会との密接な関係の中で成り立つわけで、そこから発せられる「なぜ」という質問に答える周到な準備のため、あらゆる方針はしっかりとした議論を重ねたうえで、見通しを持って変えていく必要があるのだ。

教育者たちは、自身の20年先の未来を生きる子どもたちと接している。だからこそ、価値観をアップデートすることを恐れるのならば、教育者たる資格はないのだと思う。

子どもたちが家庭以外によりどころを求めたとき、それが自分であれたらと思い、日々保育をしている。

自身の老いた価値観で子どもを苦しめることがないよう、戒めていきたいものだ。