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渋谷でできた空白は、そこかしこに彼の記憶を含んでいた

忘れられない誰かがいるということはなんでこんなに苦しく愛おしいのだろう。

目の前には空のマグカップが2つ。ファミレスのドリンクバーのココアのように、私の思考も底に甘さをたたえていました。3時間どっぷりと恋愛小説のことばを浴び続けた私は、まさに忘れられない人へと引き戻されていくようでした。

その夜の記憶と今の自分の別の人に向けた愛情とはもう交わることなどないのはわかっています。だからこそ記憶の中のその呼吸や温度は何度も生々しく蘇り、私の心を一瞬で遠くへ連れ去ってしまうのかもしれません。

5時間前に気だるく降り立った渋谷は、その空白の時間で違う顔を私に見せていたのでした。



渋谷でぽっかりと空いた5時間。次の予定までに一度家に帰ることも十分にできる時間はあるけれど、1時間半の移動と1000円の交通費をかける価値があるとは思えない私がいました。

「買い物を楽しむ」。そんな漠然とした予定を立ててみて、そのあまりの中身の無さに自分で苦笑してしまいます。それでも行き先も決まっていない5時間に向けて、もう私の足はふらふらと歩きだしていました。



渋谷。

日曜日の渋谷は降り続く雨と道端の誰かの吐いたあとがアスファルトの上で混じり合っていて、それを目に入れないように歩くことも東京の嗜みであるかのように思えました。

この雑踏の中に足を踏み入れたのは久しぶりです。1人で気ままに歩くには不快が多いこの街は、それでも私の記憶に馴染んでいました。

ただ歩いているだけなのに、今になっても私のどこかから記憶が、感覚が起き出す気配がするのです。私が1人で訪れようとした場所のそこかしこに、彼のかけらが散らばっていました。

それは雪解けのように消えたかと思えたのに、いつまでも残っては淡い色で私をおびき寄せるみたいでした。



彼と初めてデートしたあの日、今日と変わらない渋谷の街と彼の後ろ姿が私の脳に刻み込まれました。

私は半歩先を歩く魅力的なその人の横顔が、その時間は自分のものであることに心を弾ませていたのです。

あの日は肌寒い日でした。上着を持たない彼はZARAに入ると、どっちがいいと思う?と私の顔を伺いながら2つの羽織を掲げてみせました。そんな仕草に胸が一杯になり、私はその日ほどに「デート」と呼ぶのにふさわしいことってないんじゃないかと思ったほどです。

彼の選んだ合皮の黒いジャンパーは、彼の少しだけ近寄りがたい男らしさを増させるようでした。それは自分に似合う服を知っている男と出かける優越感を私に与えました。

その同じ場所に、何年越しかに私は1人で立ってみます。

バレットの原色をぶちまけたような服たちは、私の存在を無視していました。目当てのものも見つけられない私は、他人行儀な世界を一周だけするとそそくさと店を後にしました。



やたらとその人の影が浮かんでは静かに積もる午後でした。私にとって彼は、それでも本気で愛した人ではありませんでした。

熱い恋心を抱いたことはあるんです。その衝動が自分の内側からあふれることも彼は教えてくれたけれど、慈しみや安心を教えてくれたのは別のひとでした。

本当は愛されたかったのでしょうか。

彼に?

多分。

人を愛しすぎることはひどく怖いけれど、愛する人がいることの尊さを本当は感じたかったのではないでしょうか。



一通りの買い物は済んで両手はもういっぱいになったのに、私にはまだ3時間も残されていました。どこか本を読める場所を、そう思って渋谷の街に思考を巡らせます。

そんな時によぎったのも、彼といつか行こうと約束した場所でした。

初めてのデートをしたブックカフェ。彼と出会う前からもずっと行きたかった場所で、本をきっかけに近づいた私達はその空間を思い思いに楽しんでいました。今度は夜にお酒を飲みながらゆっくり過ごしたいな。目の前で本を読む男性としたのは、そういう約束でした。

そして私が彼に貸した唯一の本に出てきたカフェバー。最後に会ったときに彼が、今度行こうよと言ってくれたお店。あの時の彼は、今度はないことを知っていたのでしょうか。

彼とは、もう会うことはないでしょう。そう思うからこそ、彼と約束したお店にもしいつか行くなら、そのときには特別な理由が必要な気がしました。

結局ロイヤルホストに入り、ドリンクバーをたらたらと飲みながらシーフードドリアをゆっくりと口に運びます。彼と行った場所にはない喧騒。おじいさんと主婦とサラリーマンが、周りのうるささに負けないようにと少し顔をしかめながら話して時間を潰しています。

『1ミリの後悔もない、はずがない』 一木けい

さっき買ったばかりの文庫を手に取り、私に与えられた3時間はその本に注がれることになりました。恋と、愛とが、斬りつけるように流れ込んできます。読みきった後に思わず、長く息を吐き出している私がいました。

忘れられないひと。だけれどもう、想いはない相手。

彼がもたらすのはもう悲しみではありません。それなら忘れずにこうして時々、あの恋の衝動を思い起こすのも悪くないのかもしれません。

渋谷の雑踏に、今日は感謝を。





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本記事はnoteを巡っていて出会ったこちらのコンテストへの投稿作品です。

恋愛も読書も、私の書きたいもののストライクゾーンです。素敵な企画でぜひ書いてみたいと思いました。note大学でなくても誰でも参加できるとのことでしたので、今回は参加させていただくことにしました。

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それではまた明日。



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