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訃報とぼんやりしたままのわたし。

ここ数年、こころが鈍ってきているのを感じる。わたしは、昨年の祖母の死をまだ現実のものとして受け入れきれていない気がするし、寂しいことに気づいてしまいそうなときは、自然と思考がそこでシャットアウトされてしまう。

また芸能界の訃報が届いた。三浦春馬のときもそうだったけれど、今回もまた、わたしは多くの人が嘆き悲しむのをぼんやりとした気持ちで見ていた。

Twitterに、「心がつらくなったら、SNSを離れてください。」「つらくなったら、相談窓口があります」と流れる。それに戸惑ってしまうほど、情報をただ左から右に流し続けているような気もする。あるいは、社会の中で自分だけ透明になってしまったような。

ショックではあるけど、心の底から悲しめない自分。きっと死の実感のなさに、深く考えるのを拒んでいるのだと思う。深く考えると、どろどろと引き摺り込まれてしまうのも怖い。

そんなわけで、悲しいけれど、悲しみきれない自分を、こころがうまく機能しなくなっているな、と冷静に眺めている。もともとあまり温かい心の持ち主ではないんだけど、私がそもそも死というものを消化できていない可能性の方が高い。

テレビに出ていた人たちが、「そもそも生きていた」という実感も薄い。りゅうちぇるの訃報が流れたときよりも、ぺこちゃんのTwitterでのコメントを読んだ時の方がずっと辛かった。そこにいたひとの存在と不存在の両方を知る誰かのことばが、いつも不在の通知よりも実感を伴うぶん、胸をえぐられる。

だから芸能人の死以上に、川で子どもを救って命を失う親の名もなきニュースに動揺することもある。電車で無差別に刺された女性とか、トラックの長距離ドライバーの事故とか。存在も不存在も、身近に置き換えやすいものの報道に、自分の周りの人を重ねて落ち込むこともある。

今回も、なにがあったかを他人がどうこういうことは失礼だし私にはその権利はないと思っているからしないけれど、どうして幸せというのは実現しないのかなと、私は非常に難しい問いにあたる。

ショックなことがあると、私のこころは動きを止めて、思考が巡り始める。スイッチを切るように、感受性豊かな人であることをやめてしまうのは、私がこの社会で身につけたひとつの術かもしれない。

昔、祖母がまだ60代だったころ、5歳くらいのわたしはよく祖母が自分よりはやく死んでしまうと想像しては泣いていた。「これはおばあちゃんが死んだらまゆちゃんにあげようか。」そんな言葉ひとつに、寂しいことを言ってくれるなと泣いて抗議もした。祖母は困ったように、私をなだめながら、でも本当のことだよ、と三回に一度くらいは言った気がする。

そんなわたしは、まだ祖母の死にも向き合いきれていない。もう二度とできないこと、話せないことを理解しながら、祖母の存在も感じ続けている気もする。まだ、東京のあの家でご馳走を用意しているような気がして、でもその姿を鮮明に思い出そうとするとじわじわと哀しみを呼び寄せてしまうから、しない。もう一度あのときのことを忘れないように言葉にしておきたいと思うけれど、こわくて見つめきれない。

老人の病死と、自死はちがう。決定的に違う。

周りの人たちには、こころの準備をする時間が一瞬たりとも用意されない。そのまま失うことの衝撃を、わたしはうまく想像できないし、当事者にならないと共感することもできないのだと思う。

失われてしまったものに、勝手に悲しみを感じる自分に、身勝手だなとも思う。自分の生活は変わらないのに、今こんな文章を書いていることも。

まとまらない思考を、少しだけ垂れ流してしまった。亡くなった方の魂が、これ以上傷つかないようにとだけ祈る。



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