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今宵、お月見を口実にわたしと散歩しよう

「なんとなく歩きたいから散歩に行こうよ」

そう言ってもきっと彼は一緒に川沿いのコンビニまで歩いてくれたんだと思う。なんで、とも聞かれなかったと思う。分かってはいたけれど、「今夜は十五夜らしいから、おつきさま見えるよ」と誘った。

十五夜?

訝しげに聞き返した彼は、きっと十五夜を九月十五日のことだと思っていたんじゃないかと想像している。そのあと私が「満月だよ」ともう一度言うと、少しホッとしたように、「そっか」と言った。

私も満月ですら気にしないし、お団子だって用意していたわけじゃなくて、ただたまたまTwitterが賑わっていて知っただけだった。でもなんだか、季節を感じているような気になっていいじゃない。

夏の終わりの夕方六時。もうぼんやりと暗くて、昼間の熱気が少しだけアスファルトを焼いているけれど、気持ちよく歩ける気温だった。

三つ目の信号を渡った時、住宅地の切れ間から大きなまんまるの月が見えて思わず連れの肩をバシバシと叩いた。月のかげを素直にうさぎと思っていた時ほどの純粋さは無くなった私の目にも、やっぱり黄色い大きな月は綺麗だった。


徒然草の第三十二段に、九月二十日ながつきはつかのころと始まる文章がある。

吉田兼好が男に誘われて月見に行った帰り、その男がとある女性を訪れた夜のこと。退廃的な雰囲気を漂わせる家の家主に興味を持ち、男が帰ってもその様子を覗き見している兼好の書だ。女性は、男が帰った後にもう一度扉を開けて月を見ていたのだという。その繊細な情緒が、秋の空気と合わさってそこはかとない寂しさも匂う。

どんな時代にも月は綺麗だけれど、そこに愛情よりも届かなさを感じるのは私だけではないと思う。月は二人で見ても遠くて、ひとりだったらもっと遥かなもの。でも、照らしてくれる光を見ていれば、相手と自分の空が繋がっていることもわかる。

そして女性はその後すぐに亡くなるらしい。美しく、でもどこか寂しい気持ちを宿しながら、外に出てみたくなる、秋だからこその十五夜の景色なのかもしれない。


恋人とは、川沿いをコンビニまでダラダラと歩いていた。なんてことない週末を、特別じゃない思いつきでほんのちょっと嬉しいものに変えられるのが好き。それに付き合ってくれる恋人のことは、きっともっと好き。

今の私には少し甘すぎるスミノフを流し込む。いつから甘いお酒を飲まなくなっただろう。ビールやワインを舌で転がせるようになったぶん、ただ明るい私はすり減っていっただろうか。

京都の鴨川とは違って、夜には誰もいない草ばかりの川辺。炭酸を押し込むように空を仰ぐついでに、ときどき思い出して月を見上げる。さっきより上がってしまって小さくなったそれに、もう一度だけうさぎを探す。

私たちは、そのとき繋がっていた。お月見なんて言えない散歩は、帰りは行きよりずっと早く感じた。

私が時間感覚の違いに驚いて騒いでいると、恋人は落ち着いた声で言ってくれる。「こういう道を歩くのだけでも楽しくてあっという間だから、今日までの一年も仲良くやってきたんだと思う。」

付き合って一年。そしてこれからも私たちのお月見は特別じゃないだろう。思い立って散歩に行って、帰りはコンビニで買ったお酒を片手にゆっくり話しながら家に戻る。日常の絵の具で塗りつぶしたら、忘れてしまうような風景と穏やかな時間なのだ。

でも、それがいい。楽しい月見の後で誰かの後ろ姿と月を重ねる時間は、儚すぎて私には耐えられそうにもないし。お団子の代わりのスミノフは、やっぱり甘すぎるけど。



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お月見コンテストに参加してみます。普段はあんまりテーマにしないお月見だからこそ、書いてみるのは楽しいですね。

素敵な企画をありがとうございます!


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