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生きていることは、死んでいっていることなんだな

生きているということが、着実に死に向かっているということに急に気付かされる出来事がありました。

大切な人がもう長く生きられないのかもしれない。そんなことを突然知って、それでも自分はただ毎日を過ごしていました。

そうか、私達は普段から生きているけれど、それは同時に死に近づいていることでもあったのか。

今が一番若い!といえばなんだか「生きてる!」って感じがするけれど、それは人が生きている以上刻々と老いていき、そしてそれは死に向かっているということなのかもしれないと思いました。

なんなら、今生きているけど数秒後には生きているのかわからないのか、とそんなことまで思いました。そしてこれは圧倒的に事実であるということが私を震えさせました。


生と死とをあまりにも遠く見ていたけれど、そうではないのだとわかるのはいつだって自分や大事な人が死に近づいたときです。その2つは対極なようでいて、いつも隣り合わせなんです。

私は今死ぬ予定はないから、家具を買ったりダイエットをしたり脱毛をしたりしているわけだけれど、そんな未来に確証がないのかと思ったら、わかりません。そう思うと今立っている地面は急にふわふわと浮つき始めました。

周りの人たちも、そうとは意識もせずにいつも死へと向かっているのか。

生物の始まりは終わりの始まりでもあって、それを時折買った切り花で実感してはほんの少しだけ自分の年齢に恐れを抱くことがあります。

でもそれは根本的に未来を信じている人の老いへの恐怖であって、自分の存在が消えることを見つめているわけではないんです。

そう思うと、こんなにも死んでいっている体を持ちながら自分はなんて悠長に過ごしているものだろうと感動すら覚えます。


でも、こんなことを普段は考えないから人は生きていけるんだとも思うんです。

今、ふとこんなことを思い至って文章を書いていますが、自分という存在の脆さに向き合ってしまって怖くなります。キャリアがとか結婚がとか、そんな話をちょっとかったるそうにお酒を飲みながら話すあの至福の時間にも酔いから醒めてしまいそうになります。

自分が病気になるとか死ぬかもなんて考えもしないから、小さな悩みにもくよくよしたり、くだらない駆け引きをしたり、それでも将来を描いたり努力をしたりできるんです。

そうじゃなかったら受験とか就活とか恋愛とか、真面目にできないよ。

こんなことをあんまり考えるもんじゃないな、ましてや言語化するもんじゃないなと思ってしまいました。いや、そういう意識はどこかには持っていたほうがいいんだけれど、突き詰めて人間の脆さを自分に教え込まなくてもいいと思いました。



確実なのは自分が今生きているということだけか。

デカルトの劣化版みたいになってしまった。

これを考えることは今日だけにしておきます。

明日からは自分が生きていることを疑いもせずに、楽しみに酔いしれて生きてみようかな。

ではまた。




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