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あの日カーテンを揺らした陽射しを、もう思い出せない

初めて誰かの手でホックが外された瞬間の記憶がもうないことを、残念だと感じてしまう自分がいます。ふっと緩められるようなその瞬間。あっ、と感じてからの抵抗のなさ。

こんなことを思うのは、私が文章を書く思考で生きているということなのかもしれません。

そのとき、きっと好きな人の腕の中で目まぐるしく感じていただろうことたち。恐ろしいほどの緊張と甘い憧れと、少し飲んでいたお酒も覚ますような冷静さを感じていたはずなのに。ああ、このひとは慣れてるな、とか他人事のように感じる自分もいたと思うのに。

あの夜の私は、どんな下着をつけていただろう。

ベッドに入ってから、どんな言葉を交わしたのだろう。

どんな気持ちで、翌日他人の家のカーテンから漏れる光を見たのだろう。

寝室へと行くまでの記憶はやけに鮮明なのに、そこからの記憶をほとんど持ち合わせていません。


今となっては、なんてもったいないことなのだろうと思います。

そこで感じたことこそ、残しておきたかったと思ってしまうんです。そんなことを思うのはものを書くからでしょうか。おかしいのでしょうか。恥ずかしいことなのでしょうか。

胸の詰まる想いを感じられる時間は一瞬で、人生の中でもそう多くはなく、だからこそ自分自身の中で強く意味を残す時間であったりします。

私の時間は彼とキスを交わしたあの時から始まり、そして徐々に固く結んでいた私の心を解いていきました。


自分でつけて自分で外す。365日を10年くらい。ただそれだけの繰り返しを続けていた世界に、愛おしい人の手が介入する甘さを知りました。

彼の手は私を大切なものとして扱いました。彼の眼は好きな人を見つめて溶けていました。こうして私は、家族以外の他者から愛される存在としての自分を初めて知ることができました。

それは私に精神的な変化をもたらし、私自身を変えていったのだと思います。人を愛することを知ったというより、こんなにも真っ直ぐに受け入れてもらえるのだと知りました。

それはどうして誰も認めてくれないのかと頑なになっていた私をほぐし、優しい私に変えてくれたんです。



あの夜の彼の手の温度を、もう思い出すこともなくなりました。固く離れることのなかった下着がほどかれたときの、初めて感じた心許なさ。外された時の頼りない感覚は、今でも時折繰り返されてはこわいほどの時間の流れを教えてくれます。

誰かを想っていた年月。
誰かと離れてからのわたし。

あの時間の甘さだけは、今も心のなかに残っています。

それは何かの記憶以上に、感覚として私を溶かしうるもの。

私が必死で言葉を残すように、ここからの時間も風をきるように過ぎていくのでしょう。


25歳までの半年に、また誰かを大切に思う気持ちにめぐり逢いたい。

そんなことを思いながら、遠い日の記憶、カーテンから漏れ出る光の粒を思い浮かべてみるのです。



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