誠実性に囚われて、抱かれて、生きていくということ
本当にいい男は、女の子にお酒を飲ませたりしないよ。
水を飲ませてくれるはずだよ。
昔の恋人は、いつか私にそんなことを言いました。
飲み会では彼は、本当に酔っ払った女の子には水を飲ませているような人だったし(それは友達でも、そして私にも友達のときから)、自分が記憶をなくしながらも、男友達の介抱をするような人でした。
そういう人に大事にしてもらった過去は、私にとっての一つの人と向き合う指針になっていると感じるときがあります。
自分も大切な相手であればあるほど誠実でありたいと思うし、それを相手にも望んでしまいます。
それから、私の中では付け焼き刃の優しさではなく、誠実性に対してのハードルは上がってしまったように思うんです。
私だって利益交換ありきの優しさに、溺れたい夜もありました。
水を飲ませてくれなくたって、高いお酒といい雰囲気のバーで酔わせてくれるひとだっていいんじゃないかと思える日もあります。
きっとそこにあったのは正しさという基準じゃなくて、
ただ自分がありたい優しさに近いかどうかという視点だったんだと思います。
やさしさという言葉がやさしくない日
優しさってなんなんでしょうか。
昔からよく考えることでもあります。
自分が優しい人だとよく言われるから、そうじゃないのにって思うことが多いからかもしれません。
そんなに人間優しくないよと思っているんです、きっと。
自分のために誰かに優しくすることもあると思うんです。
でも私は、それで優しいと高く評価される自分が許せなかったりします。
そんなときには自分が矛盾した生きものみたいに思えます。
優しいと評価される程のことなんてないんだと、さらけ出してしまいたくなります。
本当にいい人なんて見たことがない
いつか好きだった人はそう言いました。
みんな、どこか自分のために他者を助けたり、動いたりしているんじゃないかな。
人間が、自分のことがかわいいのは知っているつもりです。
私も、自分のことが好きだから。
でも、時々どうしてと思えるくらいに献身的な人に出会うことがあります。
そんな時、自分のちっぽけさや利己的な思考が恥ずかしくなる。
誠実さを曲げられなくて苦しいときもあります。
なんでこんなことしてるんだろうと思うこともある。
でも、私はお酒と水なら水でありたい。
人を惑わし魅了できるその高揚感ではなくて
ただ混じりけなく存在するものでありたい。
そうしてまた大人になれない私は今日も、
誠実という難しい課題の中で
どうやって人を大切にできるかと考えています。
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