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特別なことなんてなかった時間を、特別だった人たちと。

一緒に作った彼らはもう覚えていないかもしれないですが、私には忘れられないリストがあります。それは、コロナ禍に作った「やりたいことリスト100」。コロナになる前にはよく飲みに行っていた男女の友人たちと作ったものでした。

緊急事態宣言が出て家から出られない頃、私たちは毎週末に何時間も電話を繋いで映画を見ていました。それぞれのパソコンで同時に映画の再生ボタンをクリックして、音声を繋いだまま映画を見る。イヤホン越しに、わあとか、まじかとか反応を聞きながら、なんとか誰かと繋がっていました。映画が終わったら感想を言い合って、いつものように雑談に突入して、そのまま寝落ちる人もいました。そしていよいよやることが尽きてきた頃に、そのリストを作ったのでした。

そこには、コロナが明けたら4人でやりたいことが書かれていました。ワイナリーに行くとか、花火をするとか、海外に行くとか、スカイダイビングをするとか、多分そんなことだったと思います。何を書いたか、99個は覚えていないけれど、1つだけ覚えていることがあるんです。それが、「孫を見せ合う」というもの。これは難易度SSSだね。うん、最上級すぎ、などと言って笑っていたのが4年前。とんでもないことを書いているのに、私は当時は、それが叶うと信じて疑いませんでした。

宣言が出て、解除され、また出て。そんなことが繰り返されていた時期だったと思います。社会全体が閉塞感でどんよりしていた時、私も例に漏れず、自分の選択肢のなさに呆然としていました。当時の私は、感染症で海外留学を断念したフリーター。家業の関係で実家から出かけられないことに涙が出るほどストレスを感じていました。

何度目かの宣言が明けたとき、千葉の房総半島で部屋を借りて泊まろうと言ってくれたのもそのメンバーでした。公共交通機関を使わないようにするために実家の車を出してくれたり、旅行後にすぐに自宅に帰るの心配だったら、うちに泊まってもいいよと言ってくれたり。一番厳しい私の家の状況を知って出してくれる提案に、私はことごとく頼ることにしました。

今までの私だったら、女友達ならまだしも特に男友達に頼るなんて難しいと思っていたかもしれません。けれども、そのメンバーとはそれまでに何度もひどい飲み会も失恋話もしていたからか、彼らには特別に心を許していたのだと思います。

制約の多い中で、気を使っておでかけをする。それは旅行好きの4人からしたら、旅行とも言えないほどの時間だったかもしれません。飲み屋さんに行く代わりに4人だけで部屋でたらふくワインを飲んで、観光地に行く代わりに、エアビーの庭で手持ち花火をして。誰に見せるでもなく、酔っ払いが30分だけ浴衣を着て。誰かの家と変わらないみたいに夜までおしゃべりをする。

でも、私はその夜のことを、今でもたまに思い出します。久しぶりに自然の中の空気を吸って、友人と会って、お酒を飲んで。その夜の写真はなんだかぼやけていたり指が入っていたりするのですが、私が2020年の夏にも存在していた、ほとんど唯一といっていい証明なのです。

実家の草むしりくらいしかできない自分が、なんの役にもたっていないように思えた時期でした。家族に迷惑をかけられないから、宣言に関係なく家から出ることもできず、海外でもどこへでもひとりで行けた自分の世界は、半径500メートルの最寄りのスーパーまでになりました。ゆるゆると心が弱って、でも家族に愚痴も吐けなくて。そんなときに、みんなでできることを見つけてくれた彼らに、大袈裟ではなく救われていました。

それぞれが別々の仕事をしていて、恋愛の事情も異なって、もう2年ほどみんなで集まっていません。4人のLINEグループだって、もううんともすんとも動きません。ライフステージが変わる20代の後半に会わなくなっていくのは当然なのに、私はまだ聞き分けの悪い子供のように、少しの寂しさを感じ続けているのです。

関係性というのは案外脆いものだから、もうずっと会えないのかもしれないとどこかで思っているからでしょう。毎週ビデオ通話を数時間していた時には余裕のように思えた「孫を見せる」どころか、私たちはそれぞれがどうやって過ごしているのかを知らずに過ごしていくと思います。

10年後、また思い出話でも掘り返しながら飲めたら嬉しいものです。そうでなければ、あの夏の1日の旅をときどき思い出しては、幻を掴むように過去の友人を懐かしんでいくのだと思います。


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