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花火のように

数年ぶりに、祖母と花火をみた。
それはそれは綺麗で。心なしか、去年やその前よりも大きい花火だった。

88歳の祖母。
何事も目立ちたくなくて、遠慮しがちな家系の中では、母より少しは社交的だったのに。
年々、自分と同じ年代の友達がいなくなっていって
外出も億劫になっていた。「いいよぉ〜。」が口癖で、私なりに外へ連れ出そうとしてもかわしていた。
やっと、誘った10回目くらいで花火を見る些細にのってくれた。
「この頃は、花火の時間はもう布団にいるから、音だけ聞くだけだったよ。」と言っていたけど、
花火が始まってからは、急激に目を輝かせていた。
「ちょっと今のは、風が吹いてなくて煙がそこをどかないから、惜しかったね。」「わぁ〜びっくりした。大きいね。綺麗だわ。」
20分間ほどの花火、だけれど人の心をたくさん動かすものだと改めて感じた。

花火を見に向かう足取りも、花火が終わって家へ入るまでの足取りも、どちらもいつもより軽く朗らかに見えた。

散々誘って連れ出した私も、その姿を見れたことで十分幸せだと気づいた。
うまく言葉には表せないけれど、
「生きているだけで丸儲け。」なのは強ち間違いじゃないなと。
色んなことにぶち当たったりしている時は、
こんな瞬間のために生きていないのにな。
生きているって体感が、恐ろしく長く感じたり。

はたまた、同じように色んなことにぶち当たったりしている瞬間。ひとつひとつが私の思う経験値を稼げずに颯爽と駆け巡ってしまい、捕まえきれないような短さを感じたり。

長い短いのどちらの感じ方にせよ、花火のように
切り取り次第で違うものになっていく。

祖母にとって、一緒に見た花火が
最後の時や今生活している中でどれくらいを占めるのかは、私はわからない。
けれど、レイコンマ何秒単位の花火(思い出)であっていい、むしろ祖母の記憶から消えてしまっても大丈夫。
なぜなら私が覚えているから。

「利用者さんの明日の記憶に、今日のレクリエーションで楽しかったことはないかもしれない。
だけど、私たちが楽しかったことは覚えているじゃない?楽しかった時間は確かにここにあるんだから。それでいいの。」
と、中学生の頃老人ホームで、レクリエーションをして利用者さんとふれあった時に
施設のスタッフさんが言ってくれた言葉が蘇って来た。


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