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空に登る炭の灰とソーセージ

もう6月なのに雨が続く北フランス。ひと昔ならこの曇り空も見慣れた光景だったのに、ここ数年は5月からすでに日照りが続いていたので、少しだけひんやりとした感触は新鮮に思えてしまう。日本の梅雨がここにまで届いているような気分になる

まだまだ皆んな、今の状況には不安を持っているかも知れない。でも、どういう状況であったとしても人類がウイルスと戦ってきたのは今に限ったことじゃない。人は社会のルールにはある程度従わなければいけないが、生物としての感情はたまにそれを上回ってしまう。昨晩はそんな夜となった


夏といえば、何を思い浮かべるだろう。海、日焼け、アイス、夏休み?

ヨーロッパの夏はみんなでバーベキューを楽しむことが多い。庭がなくてもベランダで煙を焚きながら雰囲気を楽しんでいる人もちらほら見るぐらいだ。だからバーベキューでみんなで集まるというのはごく普通のことだ

知り合い、友達で庭に炭を持ち寄って「ゴホゴホ」いいながらも団扇で火に活力を与えるのもいい。家族だけで少し陰った太陽の温かみを少しでも長く感じたいがために大好きなソーセージと油で燃え盛る炎に当たるのもいい。楽しみは沢山ある

とにかく今年はそれより何より、みんなに公共の場で再会できた喜びも大きいのかも知れない。あまり乗り気じゃなかった人も久しぶりに誰がいるかもわからないクライミングのバーベキューパーティに顔をだしているようだった


確かにまだマスクは着用しているが、その上からでも顔が微笑んでいるのが見えるぐらい会話は弾んでいた。みんながそこにいる『誰か』との触れ合いを大切にしているように感じる

そんな中、ふと横を見てみると一人の友人が未だ夏顔を見せない今年の6月にシャツだけを着てきたために、腕に手をこすりながら寒そうに話を聞いていた

確かにまだまだ油断はできない状況だったが、反射的に羽織っていたコートを差し出していた


誰も何も言わなかったが心の片隅では考えていたかも知れない。「この油断はいつか大きな波となって返ってくるんじゃないか」と

でも、それとは全く違う所で考えていたことがある。一つの大きな問題だけに集中して気を病んでいると何も見えなくなってしまうのではないかと


直接会うことができなかった。危険から遠ざけるために映像で、音声である程度の肩代わりはできていたかもしれない。でも、そこが中心になってしまうと直接触れ合う生物的な触感も失われてしまうのではないだろうか

今は購入するよりシェアしている時代にまできている。車のシェア、映画のシェア、音楽のシェア。実物を持っていなくても様々なことに直結して使用できる時代なのだ

でもだからこそ、人々がコンタクト(質感)まで失ってしまうのはどうなのだろうか


今はまだ雲で覆われた寒空の下にいるかもしれない。自分の身は自分で守るしかできない

でも、自分の行動で認可できる範囲では、守るべき檻から出ないと見えない範囲の常識なる行動をとっても許してもらえるんじゃないだろうか


貴方の隣の人の肩は震えていませんか?どれだけ難しい選択肢であったとしても、病いはその悪寒から始まってしまうかも知れない


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