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見知らぬお客様

彼女が帰ってこなくなったあの夜から数ヶ月が経過した。あれから僕は、強がっていない雰囲気を出しながらも、心のどこかで常に『もしかしたら』という感情を抑えていた。

初めはただ、彼女が健康で有意義に時間を過ごしながら幸せに暮らしてくれていたらいいとだけ思願っていた。その考えは今も変わってはいない。もしこの想いが帰ってきて欲しいと変化すると、自己満足になってしまい、本当に時間を共有したいと想うこととは嘘の現実になるだろう。

それでも僕自身は何をすればいいのか分かってはいないのだ。強がって、筋を通してただ待つのは違っているはず。でも、見向きもしないで自分に嘘を突き通すのも間違っているはずだ。

言葉はしっかりを選ぶべきだが、ただ前を向いて進むという『ただ』の部分に僕は不信感を覚えている。だから、出入り口となっているあの扉を見ることはあってもいいはず、でも扉の前で待っているだけという立ち往生ではいけないんだと思っている。


だからもう一度、鏡の中じゃない自分と会話をするようになった。独り言?いや、そうじゃなくて、頭と身体をめぐっている神経と会話をするようになった。

あぶない橋を渡ってそうな雰囲気だが、そうじゃない。鏡の中の自分も結局は目からの情報になってしまって、無限にある神経にはこの方法でしか通信ができないのだ。


彼女が扉から出ていった、雰囲気と気の流れを人の何倍も感じ取れる彼女だ。何かを感じ取ったのは間違いなかった。

だから、僕も深層に潜る以外に答えを探る方法が見つからなかった。

そして感じ取った一枚の手紙、そこに書かれた内容は僕が一番恐れていた過去を否定するかのような内容。「不完全燃焼な気の流れと不機嫌な自分」。自分が信じていた自分から客観的に己に目を向けなければいけない瞬間だった。


30年以上続けてきた身体の使い方に疑問を持たなければいけない事実。ただ我武者羅に努力してきたものを矯正していかなければいけない年月。初心者として一からやり直さなければいけない労力。考えただけでも逃げ出したくなる。

でも、わからなくてもやらなければいけない本当の感覚には、なぜか答えも知らないうちに目前にまで迫ってきていることが多い。なぜなら本当に思えば、自分は知らず知らずのうちにすでに探求に出かけているのだから。


また数ヶ月が経過した。

彼女はまだ戻っては来ない。

でも、彼女がいたからこそ来なかった来客者と目を合わせることとなった。


どれほどその来客者と見つめあっただろう。今まで見ることなど経験しないほうが普通だろうに、その常識から頭を少しずらしただけでこんな新しい経験ができるとは思いもしなかった。

僕は続けた、この常識外れなはずの行動を。こんな風に、一つでも新しい発見をするためにも、今までの自分を否定してでも。


春も終わりに近くなってきた5月の終わり頃、自転車に乗って今まで行ったことのない場所を目指して漕いで行く。

そこには昔、一度だけ出会ったことのある知り合いと顔を合わせることができた。

彼は絵が上手だ。ここはそういう芸術家がたくさん集まるギャラリーの展示会となっていた市役所。外観だけ見れば、300年以上経過しているとは思えない荘厳な建物だ。

会場で彼と話をしていると、ふと一人の女性が立ち止まり僕の顔を見るなりこう語りかけてきた。「ありがとう。貴方はここにとてもいい気を持ってきてくれたわ」と。そう伝えると、何もなかったかのように僕の来た道を歩いて行った。


僕は自分を否定して矯正をしたんじゃない。客観的に見ようとしなかった自分を肯定して物理的にまた一から始めるんだと決心がついたんだと思う。

笑顔の裏にはその人自身の決意が浮かび上がる。他人じゃなく、自分の笑顔にも嘘があれば浮かび上がってしまう。

彼女が今、どこで太陽を感じているのかは知らない。ただ僕は、嘘のない笑顔を太陽に向けられるように胸を張って歩きたいと思う。

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