芸術とヌードとエロスとAIと
自宅のインターネットが死んだ。別に生きていないのはわかっているのに、あまりにも日常に溶け込んでいるように感じてしまい、誰もがこの表現をしてもおかしいとは思わないだろう。
これは丁度よかったかもしれない。俺が生まれた時はネットなんて電話だったし、コンピューターだってなかったのだから。
今となっては誰もが携帯を持ち、さらにはスマートフォーンを持っているのが当たり前だと思われている世界。そんな世界は30年前にはなかった。それでも人は生きていたし、不幸だとは誰も言わないだろう。
それでも時代は進み、コンピューターはどんどん人間の生活に浸透し、今では常に繋がっていないと不安になるばかりである。それが50パーセントの人間なんじゃないだろうか。
普通なんて更新される。そしてその波に飲まれていくのも必定なのだ。抵抗すべきはその流れじゃない、自分とその周りの価値観の違いであろう。
ソーシャルネットワークというデジタルの世界が人を支配しました。その中でも勿論秩序は保ちたいものです。しかし、いくらどう説明しても納得いかない事情はあるものです。それが今回自分の目の前に繰り広げられた俺とAIとの対話、芸術と裸とエロスについてです。
まだ時代がコンテンポラリーダンスをも真新しいころ、一人の女性がその肌(胸)を露出して振付けを創りました。これと言ってエロスを表現するわけでもなく、そこにはピュアな姿がありました。
しかし、それをみた観客はこう言ったのです。「これこそ芸術だ!」と。
するともう一人の観客はこう言ったのです。「これは自然のものだ」と。
さて、あなたはどう捉えますか?これだけの文章ではどうとでも捉えられます。
エロスなんて人それぞれ、少しでも肌が見えていればもうエロスだという人も居れば、乳首が見えればエロス、脇の下がエロス、お尻が目の前にあればエロス、股間が見えればエロス、足の裏がエロス、どうとでも捉えられる訳です。
これは肌の見える量ではないはずです。では赤ちゃんの生まれた姿はエロスなのか。違うのは年齢だからでしょうか。これらは今までエロスが生まれてから成長してきてしまった社会の中の常識のウイルスなのかもしれません。
どうしてこれがAIとの会話なのか、それはネットワークに自分が撮った芸術作品としてこの世に出ていたものを乗せたことから始まりました。すると思いがけずに人にみられたのか、いきなりそのビデオは削除する様に提示されたわけです。そしてその理由が、(センシティブな露出の可能性、「健全」なサイトを目指すための警告)なんだそうです。
俺は笑うことしかできませんでした。別に芸術だから許されるとは言いません。でも、エロスのない露出もあっていいはずです。芸術が芸術として正しく広がらないのは、どうしてなのかがそこでも見えた気がします。
そしてどうして自分が笑ったのかには理由があります。それは、隠している部分がほぼなくても、さらにエロスで釣る様に表現をしてもそれはこの「健全な」サイトにとっては大丈夫だ、「健全だ!」という点です。
じゃあ、俺の目の前に現れた健全なサイトとはどういうものなのかがこれを作った人を疑うしかないじゃないですか。アートは健全ではない、とは勿論ここが言っているのではない、ですが、このアートを表現する場所ではない言われているのです、裏で。
これが我々が進んでいる未来の姿です。価値観は最終的にAIが決めていくでしょう。人なんて関係ありません、その後ろに誰かがみているなんて思わないこと。人として会話を試みても目の前の人は機械よりも機械的な場合が多いのですから。
明らかなエロスは、服を着ていてもエロスであり、逆にエロスのない裸もあるはずだ。これらの違いは想像している我々自身にある。これは誰でもなく、個人個人が努力して見直さなければどうもならない。
勿論その後、ビデオは消しました。俺が納得はしなくていい、それは現在も昔も世界は何も変わっていないから。変わったのはどこに人が何に興味を持っているかだけであり、人は今も昔も(健全な)社会を目指しているだけ。
価値観はどこにあるのか、それは個人の世界をいじるしかない。それができるのは誰でもない、その本人だけだ。俺はそれでも裸が必要だと理解があれば脱ぐだろうし、理解して脱いでいただける人と出会いたいし、仕事がしたい。
芸術も哲学も映画も、フィクションだから許されるのか。それとも一生、この狭い世界の中でしか成長しないのだろうか。
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